嘘八百日記

このブログ記事は全てフィクションです。

閉鎖病棟入院記②

6月29日(水)

閉鎖病棟では、精神疾患を持った患者が療養している。 

基本的にはどの患者も大人しく、穏やかなのだが、中には少し変わった行動をする患者もいる。

50代女性患者の長谷川さんは、歌が大好きなのか、病棟内を散歩しながらよく通るソプラノで歌を歌っている。 

午前中は日当たりの良い食堂に行き、読書をするのが僕の日課だった。食堂には人が立って出入りできるぐらいの大きな窓が並んでおり、僕のいる病棟内では1番外の景色がよく見えるのでお気に入りの場所であった。

いつものように、誰もいない食堂で本を読んでいると、途中で長谷川さんも食堂に来た。

「美しき人生よ〜 かぎりない喜びよ〜」

スリッパをパカパカ鳴らしながらゆったり歩き、堂々とあの名曲を歌いあげるその姿には、羞恥心などは微塵も感じられなかった。

彼女はしばらく、食堂の窓の前に立ち止まり、よく晴れた外の景色を眺めながら、その美声を食堂内に響き渡らせていた。 

入院前だったら、集中を乱されたくないから、と場所を移動していたと思う。だが、入院して数日経った今は少し心に余裕を持てるようになっていたので、せっかくだからこの状況を楽しむのも手かと思えたのだった。

僕は読書を中断し、しばらく彼女の歌に耳を傾ける。

ここはコンサート会場、食堂ホール。 僕が観客で、彼女が歌手。 数分の間だけだったが、小さなコンサートはその時、確かに開演していたのである。

 

夕方頃、風呂から上がって自室でのんびりしていると、何やら廊下が騒がしくなった。

どうやら、新しい患者が来たらしい。 僕の部屋のすぐ向かいにある303号室は個室だ。

ここに来たばかりでまだ不安定な患者は、この監視カメラ付きの個室に入れられ、何か不穏な動きをみせないかどうか、数日間様子を見られる。 その後、問題なければ2、3人の患者が寝ている大部屋に移動し、病状によっては別の個室に移動することになる。

今日来た患者はかなり厄介な人だった。 

30代の男性患者なのだが、背丈もかなりあり体格も良い。 それだけで若干の威圧感を感じるが、彼の恐ろしい部分はそれだけではない。

彼は大声で独り言を話し、勝手に病室を出ては自分の要求を大声でがなりたてる。要求が通らないとこれまた大声で罵詈雑言を放ち、壁やドアを殴る蹴る。 

「ねぇごはんまだーー?」

これを何度も何度も繰り返し廊下で怒鳴る。 看護師はその度に「あとちょっとだから部屋で待っててね」と部屋に戻らさせる。 

それでも彼は勝手に部屋から出てきて、同じ問答を繰り返す。

何回かそのサイクルを続けてから、看護師の態度が何か気に食わなかったのか、「なんだよ、くそったれがよ!」と壁を思いっきり殴りながら大声で悪態をつき始めた。静かだった病棟内の廊下には、彼が壁を殴ったり蹴ったりする物々しい音がしばらく響いた。

頭は子供のまま、図体だけ大きくなってしまった、という表現がぴったりな人だった。

もちろん、こんな患者を看護師は放っておくことはなかった。

看護師たちは数人がかりで彼を宥めすかし、そのまま彼を隔離病棟へと連行していった。

隔離病棟は、閉鎖病棟のさらに奥、僕らのいる病棟から分厚いドア1つ隔てた場所にある。 隔離病棟に入ったことのある人曰く、『あそこは独房だよ』 とのこと。

正方形の狭い部屋に固いベッドとトイレのみがあり、用を足しても手を洗う蛇口なんてものは無いのでウエットティッシュで拭くようだ。

それ以外の家具はなく、冷たく無機質なその部屋を、その人は『あんなところ、入るもんじゃない。 もう二度とごめんだね』と苦々しく吐き捨てていた。

実際、隔離という名前通りの構造らしく、向こうの声や物音は全くこちらの病棟には聞こえてこない。 明るくて穏やかで何も無い閉鎖病棟に、再び静寂が訪れたのである。