嘘八百日記

このブログ記事は全てフィクションです。

閉鎖病棟入院記④

7月1日(金)

昼食を食べ終えた後の自由時間。 僕はしばらく自室で作業療法室から借りた本を読んでいた。 貧しく孤独な少年が親友と一緒に、夜空を走る汽車に乗って旅をする話だ。

夜空の世界の情感溢れる美しさと儚さ、道中で出会う愉快な旅人たちと、彼らの旅路の果てに待つ哀しい運命との対比で胸がいっぱいになった。

気分転換でもしようと、本を閉じて食堂へと向かった。

食堂の外のベランダには、薄紫色の花をつけた紫陽花が咲いている。 窓際の席に座り、風に吹かれ揺れるそれをぼんやりと眺めていると、心の中でごちゃごちゃと絡まった感情がニュートラルな状態に戻っていくような気がした。

食堂に着くと、先客がいた。 窓の方を向いて座っている小柄なその背中は、15歳の患者である高橋くんのものだ。

高橋くんとは、以前2人で話す機会があった。 その時に、彼は15歳という若さにも関わらず、ゼロ年代のアニメや漫画に精通していることが分かり、アニメオタクである僕とすっかり意気投合してしまったのだった。

ゆっくり近づいてみると、高橋くんは、ノートのページいっぱいに何かを一生懸命書き込んでいるのがわかった。 

僕は高橋くんの斜め前の椅子を引いて、「ここ、大丈夫かな」と聞いた。

高橋くんは溌剌とした笑顔をこちらに向け、「はい、大丈夫ですよ」と答えてくれた。

僕はそのまま席に座り、高橋くんのノートをちらりと一瞥した。ページの上部に、今日の日付と天気が書かれていた。 

「これは日記かな? 凄い文量だけど」

「はい! ノートいっぱいに文字を埋めると、何だか安心出来るんです」

「へぇ…… 何かわかる気がするな」

僕も高校生の頃、日記を付けていた。 内容は…… あまり口には出せない、日常で感じた苛立ちや不満ばかりのドロドロとしたものだった。

高橋くんはそれからしばらく、一心不乱にノートに文字を書き連ねていった。 僕はそれを何とはなしに眺めていた。

ペンを持つ手に力が入っているのか、色白の丸顔が少し上気していた。ノートを見つめる目は切れ長の一重瞼だが、目尻が下がっているので優しげな印象を与える。

着ているのは青色の長袖ジャージだ。 胸元に高橋と刺繍されているから、学校の体操服かもしれない。

ペンを持っている側のジャージの袖がノートに擦れ、少しめくれた。そして彼の手首が顕になった。

高橋くんの手首には、横一直線の傷が何本もあった。それらは既にかさぶたにはなっているが、まだ赤みが残り、比較的新しい傷であることがわかる。

高橋くんは僕が見ているのに気づいたのか、「見苦しいものをすみません」と申し訳なさそうな顔で謝った。 

僕は咄嗟に、「こちらこそ、ごめん」と謝った。

しばらく、気まずい沈黙が2人の間を流れた。

先に話を始めたのは、高橋くんだった。

「禍福は糾える縄の如し、って言葉あるじゃないですか」

突然そんな言葉が出てきて、僕は少し驚いたが、

「あぁ、いい事と悪いことは交互に起こるってやつだよね」

と返した。

「はい。 僕、中学の国語で習ってから、その言葉がずっと頭に残ってるんです」

高橋くんは机に置かれたノートに視線を向けたままだった。 眉間には若干の皺がより、普段は温和な彼の心の奥にある、少し神経質な部分が表出しているように思えた。 

「いい事があった後は、このあととんでもなく悪い事が起きてしまうんじゃないかって、物凄い不安に毎度襲われるんです…… だから、そんな不安を潰すために、僕は腕を切るんです」

そういって高橋くんは、そっとジャージの袖を直した。

「僕、双極性障害って診断で入院しているんですよ。 元気な時とそうでない時の振れ幅が大きいんです。 しばらくは本当に元気で、自分は何にでもなれるし何でもできるって、全能感みたいなもので満ち溢れるのですが、それが終わるともう本当に、これが人生のどん底だ、と思わずにはいられないほど落ち込んで…… それが交互に起こるから、より合わさった藁束が絡まっていく、あの故事成語と重なるんですよ。 いい事の後には、必ず悪い事があるんです」

高橋くんはどこか達観したような口ぶりであった。 もしかすると、その病との付き合いが長いのかもしれない。

僕は、高橋くんがここにいることの意味を再確認した。 

この閉鎖病棟に患者としているということは、皆それなりの事情を抱えているということだ。 

高橋くんと会話をしていると、彼は屈託なく笑い、気さくに話してくれるので、彼には悩みなど1つもないのだと思ってしまいそうになる。だが、それは間違いだ。彼には彼なりの苦悩があり、他人には見えない所でそれと日々戦っているのだ。