それでは、よい週末をお過ごしください。
「……それにしても、卒業式終わりに公園のベンチでお菓子を食べるって……小学生じゃあるまいし」
「えぇ~? わかってないな~! 桜を見ながら公園のベンチで食べるってのが最高にエモいんじゃん!」
「お前、ことあるごとにすぐエモいって言うよな。もっとボキャブラリーを増やせよ」
「あたしはタクミと違って頭良くないから無理! 」
「はいはい。でも、もう最後なのに俺なんかとこんなところにいていいのか?ハルはクラスに沢山友達いただろ」
「うーん、でも、やっぱ最後はタクミと一緒にいたいなって」
「何だよ、それ。反応に困るんだが」
「……もう。これだからタクミはダメなんだよ」
「何がダメなんだよ」
「……何でもない!こっちの話!」
「……そ、そうか」
「……それにしても、もう3月だけど、まだちょっと寒いね!」
「それはお前のスカートが短すぎるからだろ。もう少し健全な長さにしろ」
「別に短すぎじゃないし!これが可愛いんじゃん! …………でも、このベンチ、金属で出来てるから太ももが直に冷えるわ~」
「……だから、反応に困ることを言うんじゃない」
「え、もしかしてタクミ、ちょっと恥ずかしがってる?今、あたしの太ももに目線向けてたよね?」
「はぁ?そんな訳ないだろ!ハルとは小学校からの付き合いだし、今更異性として見れないな」
「…………」
「何だよ、急に黙りこくって」
「……っ……、ぅ……」
「え?」
「ぐすっ……ぇぐっ……どうして、どうしてっ、そんなひどいこというのっ……ぅぁ!」
「……えっ、えぇっ?急に泣くなよ!なんなんだよ!」
「タクミっ……、あたしのこと、女の子として見てないってことだよねっ……」
「いや、まあ、そういうことだけど……」
「だからだよっ!だからぁっ、ぅえ、それが辛くてっ……、ぐすっ……」
「…………ああっ、もう!わかったよ!わかった。俺はハルのこと、ちゃんと女の子として見てます!だからもう泣き止めって!」
「…………ほんとに?」
「ああ、本当だ!……これでいいか?」
「…………ぷっ」
「…………ん?」
「……くくっ、……くふふっ」
「……今度はなんだよ」
「…………ははっ、あは、あはは!!タクミ、引っかかった~!」
「……は?」
「今のは嘘泣きでした!タクミ、本気で焦ってたね~!」
「あ、あのなぁ!!お前、人の気持ちを何だと思ってんだ!!」
「タクミこそ、あたしに異性として見てないなんて言って、あたしの気持ちを考えてなかったじゃん!」
「それは確かに俺が悪かったが……それにしても悪質だぞ!次からは引っかからないからな!」
「はいはい。…………でもさ、次、があれば、今日が最後じゃなければよかったのに、ってやっぱり思うな。……またタクミの焦った顔見たいしね」
「理由が不純だな…… だが、今更どうこうしても、今日が"最後"であるのは変わらないぞ」
「……まあ、そうだね。こんなに何もせずにのんびりしてるのって、あたしたちぐらいかも。 あ、ほら。あそこでまた車が事故った」
「うわ。 4台まとめてとは、これはまた酷い事故だな」
「……みんな、そんなに急いでどこに行きたいんだろうね~」
「さあな。どこかにいけばもしかしたら助かるかも、と藁にも縋る思いなんじゃないか?」
「でもさ、多分無理だよね。なさ?とじゃくさ?だかが、地球全体が滅びるぐらいの隕石が落ちてくるって朝のニュースで言ってたし」
「NASAとJAXAな。かつて恐竜を絶滅させた小惑星級の隕石が落ちてきて、その隕石は現在の技術ではどうすることもできない、とも発表していたな」
「じゃあさ、もしかしたらさ。かつて地球で暮らしてた恐竜たちも、今あたしたちが見てる空と同じ空を見て、絶望してたのかな」
「……ハルにしては随分詩的なことを言うな。そう考えると、隕石が邪魔してちゃんと見えない青空にも、少しは好感が持てるな」
「タクミ、あたしのことバカだと思ってるでしょ!も~!」
「学校の成績と日頃の言動から総合的に判断すると、バカだな」
「ひっど~~! クラスの女子たちに今のをチクってタクミの人気を下げてやりたい!!」
「人気もなにも、俺は元々そんなに人気はないだろ」
「……自覚なし、か~! だからタクミはダメなんだよ」
「お前、さっきも言ってたけど、俺がダメって何がだよ」
「ど・ん・か・んってこと!タクミは頭もいいし、背もそこそこ高いし、顔もそんなに悪くないし、大学だってかなりハイレベルな所に受かってたし、クラスの女子たちの中では結構人気だったんだよ?」
「……はあ、そうなのか」
「あぁ!ちょっとニヤけてる!無関心なフリしてほんとは嬉しいんだ! 」
「そりゃあ、まあ、な?」
「……む~、何か複雑だな~」
「何だよ、複雑って」
「ん~、わかんないけど、なんかヤな感じ!」
「ハルは本当、昔から自分の気持ちを言語化するのがへたくそだな」
「うっさい!…………でも、タクミは第一志望の大学に受かってたけど、入学できずに終わっちゃうのは悲しくないの?」
「そうだな、やっぱ悲しいよ。最初はそれこそ絶望してた。あんなに必死になって勉強したのが全くの無駄になってしまうんだからな。だが、最後の日が近づくにつれて、諦めというか、達観というか、いつの間にかこの、どうしようもない現実を受け入れてしまったな」
「そっか…… 」
「ハルこそどうなんだ? 確か、保育士の専門学校に入学する予定だったよな」
「そうだね…… 保育士になるっていう、小さい頃からの夢が叶わないまま、最後の日を迎えるのは悲しいよ。でもね、あたしには、もっと、もぉっと、悲しいことがあるよ」
「……それはなんだ?」
「それはね、もうタクミとこうやってダベったり、遊んだりできないこと。それと……」
「……なんだよ」
「…………もうそろそろ最後がきちゃうから、ほんとの気持ちを隠すのはやめる!あたし、あたしね、ずっと、それこそ小学校の頃から………… タクミのこと、すきだったんだよ」
「えっ、ああ、そうか……」
「……そこ! ああ、そうか、じゃないでしょ!」
「いや、なんというか、なんて言えばいいかわからなくてな。すまない……」
「タクミは本当、昔から女の子の気持ちを理解するのがへたくそだね 」
「なんだ、さっきの仕返しか」
「そうだよ!! というか、あたしが本音を伝えたんだから、タクミも返事をしてよ!」
「ああ、そうだな…… その、なんというか、ハルにそう言ってもらえて、俺は今、素直に嬉しいと思ってる。 だからさ、まあ、俺もハルのこと……そう思ってるってことだな」
「……そう思ってるって、どう思ってるの?」
「……そこまで俺に言わせるのか」
「あたしはめっちゃ恥ずかしかったけど、ちゃんと言ったよ!だから、タクミもちゃんと言って!」
「わかった、わかったよ。さっきは照れ隠しでハルを異性として見てないって言ってしまったが、俺もハルのこと、結構前から好きだったんだ」
「…………ほんとに?」
「本当だ。……まさか、この告白も嘘ではないよな」
「…………自分の本当に気持ちに、嘘なんてつけないよ」
「そ、そうか……」
「あれっ、タクミ、顔すっごく赤くなってる~!」
「……それはお前だってそうだぞ」
「えっ!? うそっ! ……あっ、確かにほっぺが熱い」
「恥ずかしいのは、お互い様ってことだな」
「えへへ、うん、そうだね…… 」
「……今のハル、なんか女の子らしいというか、いじらしくて可愛かったな」
「なっ、えっ、ちょっ!……急にそんなこと言わないでよ!心の準備がまだできてないし!」
「ん? 思ったことを素直に言っただけだが、それもダメなのか。やっぱり女心はよくわからんな」
「もう…… 」
「それにしても、俺たちは両想いだったって、最後が来る前に知れたのは良かったんだろうか。それとも、もっと前から知っていたら……」
「それを言ってもしょうがないよ。あたし、今日で地球が終わるのを、朝に空を見上げて実感したからこそ、勇気をだしてタクミに気持ちを伝えられたと思うんだ」
「そうか、そうかもしれんな」
「……これが吊り橋効果ならぬ、隕石効果ってね!」
「使い方が若干違う気がするが…… まあいいか」
「それにしてもさ、あたしたちの卒業式とあたしの告白が終わるまでは落ちないでいてくれるなんて、隕石も粋なことするんだね~」
「これで軌道がそれて地球にぶつからないでくれれば、もっと粋だがな」
「……たしかに、そうだね」
「…………」
「ま、落ち込んでもしょうがないし、お菓子でも食べますか!」
「……ああ、そうだな」
「ええっと…… あたしのはこれ!」
「なんだ、うまい棒か。どうせならもっと高いお菓子でも買えばよかったのに」
「価値は値段だけでは決まらないし!あたしはうまい棒一筋18年ですから」
「はいはい。俺の分も袋から出してくれ」
「うん!はいこれ!って、栗ようかんか!やっぱ高校生なのに渋いチョイスで、いつ見てもウケるわ」
「食う菓子に年齢は関係ないだろ。俺はコンビニのレジ前に置いてある小さめの栗ようかんが昔から好きなのは知ってるだろ?」
「うん。知ってる。でもやっぱり面白い!」
「俺は最後の晩餐が栗ようかんでも全く問題ないな」
「あたしも、うまい棒で問題ないよ」
「あぁ…… 隕石、さっきより近づいてきてるな」
「……そうだね。道路もさっきから車が何台も事故るから燃えちゃってるし。周りのみんなキャーキャー叫んで怖がってるね」
「これぞ非日常って感じだな」
「…………もう、最後なんだね」
「……隕石が落ちる前に、俺は栗ようかんを食べるぞ」
「あ、あたしも!……もぐもぐ……やっぱりおいしい!」
「んぐ。やはりうまいな……」
「………ねぇ、」
「ん?なんだ」
「最後が来る前にさ、もう一回だけ、もう一回だけでいいから、すきって言ってくれないかな?」
「む…… 中々に恥ずかしい注文をするな」
「ダメ、かな?」
「いや、ダメじゃない。…………お、俺は、ハルが…………好きだ。」
「うん、うん、ありがとう…… あたしも、タクミがすき……」
「…………やはり恥ずかしいな。でも、ハルに好きと言うのも、言われるのも悪い気分じゃない」
「……タクミがそう言ってくれて、あたし嬉しいよ。 じゃあさ、最後にもう一個だけ、お願いできないかな」
「……何をだ?」
「その……さ、キス、とかできないかな?」
「んなっ!? それはかなりの難題だな……」
「でも、あたし、すきな人とキスができないまま最後を迎えるのは…………いや、だな」
「だが、俺はそんなのしたことないぞ……」
「あたしだって、したことないよ?」
「そ、そうか………… では、期待に添えないかもしれないが、やってみるか」
「う、うんっ……」
「……恥ずかしいから、目、閉じろ」
「うん」
「じゃあ、今からするからな」
「……うん」
「…………………」
「………………………………」
「…………これでいいか?」
「……うん。なんか今、すごい心臓がバクバクしてる」
「俺もだ」
「初めてのキスは甘酸っぱいレモン味ってよく言うけど、タクミのキスは栗ようかんの味だった」
「ハルのはうまい棒のめんたいこ味だったぞ」
「うわっ、それなんか恥ずかしいかも…… 甘いお菓子を食べておけばよかった」
「ふふ、まあ、めんたいこ味だって悪くなかったぞ」
「ほんとに? 」
「多分好きな人とのキスだったから、かな」
「んもう! なんかタクミ、さっきからだいぶ言うようになったじゃん」
「まあ、それも隕石効果のおかげ、かな」
「そっか………… あ、もう」
「かなり近いな。もう本当にこれが最後なんだな」
「……………………」
「ん? どうした?」
「あたし、あたしね……」
「うん」
「…………あたしっ! やっぱり、これで最後なんていや!!」
「…………」
「もっとタクミといろんな所にデートしたり、いろんなお話したり…… さっきみたいなキスだって、もっとしたかった!!」
「ハル…………」
「あたし、今、好きな人と心が通じ合う幸せを知っちゃったから、この幸せを失いたくなくなっちゃった…… さっきまでは、もう世界が終わっちゃってもいいかな、って思いかけていたのに…… なんでよ、なんでよ! 」
「…………………」
「なんで今日で世界は終わっちゃうの? なんで明日が来ないの? 終わるのは今日じゃなくたってよかったじゃん!もう少し、もう少しだけ先延ばしにしてくれてもよかったじゃん!」
「ハル」
「なんでよ!なんでっ……………… ひゃっ!」
「…………もうすぐ終わるこの世界を変えることは、俺にはできない。でも、世界が終わるその時まで、ハルの傍にいることなら俺にもできる」
「…………も、もうっ、急に抱きしめるなんてっ……! しかも、なんかキザったらしいことまで言ってたし!」
「う、うるさい! お前を落ち着けさせるためにやっただけだ!それにな、男っていうのはとにかくカッコつけたい生き物なんだよ!」
「……ふふっ。でも、そう言ってくれて、抱きしめてくれて、すっごく嬉しいよ。 …………あぁ~あ!さっきタクミが言ってた通り、もっと早くに告白してれば、こんな風にタクミに沢山抱きしめてもらうこともできたんだなぁ…… 」
「……俺は、今日が最後じゃなければハルを抱きしめることはおろか、ハルに触れることすらできなかったと思う」
「……そっか。隕石なんてだいっきらいだったけど、それ聞いてちょっと好きになったかも」
「なんだよ、それ」
「……すきな人に抱きしめられるのって、こんなにあったかくて、こんなにも幸せな気持ちになれるんだね」
「……そうだな、俺も同じだ」
「……最後が来るまで、あたしを離さないでね」
「ああ、わかってるよ」
「タクミ」
「なんだ?」
「今までありがとうね、さよなら」
「さよなら、はあまり好みじゃない。またね、がいいだろう」
「そっか、それもそうだね」
「ハル、また会おう」
「うん。またね」
「ああ」
「タクミ、もしもあたしたちが生まれ変わったらさ、そしたら、またあたしのこと、すきになっ
閉鎖病棟入院記⑫
8月21日(日)
前回の更新からかなり時間が経過してしまった。
その間、色んな事件や出来事、治療によって入院当初の頃からかなり変化した人や、退院する人に入院する人と、人の移り変わりも沢山あった。
今回は閉鎖病棟入院記⑨で紹介した太田さん
の驚くべき変化について書こう。
太田さんは極度の潔癖症で、自分ルールを他者に押し付けては他の患者に迷惑をかけていた30代の男性患者である。
太田さんは約3週間前、流行りのウイルスに感染し、2週間ほど隔離室に入れられていた。
太田さんが防護服を着た三人の看護師に、隔離室に移送されていくのを、20代の女性患者の植田さんは見たそうだ。
彼女も僕と同じく、大声で自分の要求を通そうとし、他者を傷付ける太田さんが苦手であった。
「隔離室って、狭い部屋にトイレとベッドしかなくて、手を洗える洗面台もないから用を足してもウエットティッシュで拭くしかないみたいだよ」
とこっそり僕に教えてくれた。
太田さんはかなりの潔癖症で、いつもお気に入りの洗面台で手を洗うのをよくみかけていた。
そんな太田さんが、手を洗えない環境で2週間も隔離されたら…… 本当の気狂いになってしまうのではないか、と嫌いな相手ながら少し心配になった。
「太田さんは大丈夫なんだろうか」
と僕が呟くと、
「ケンちゃんは誰が触ったかもわからないものを触るのを嫌がってたし、自分以外には誰もいない隔離室にいた方が案外幸せかもしれないよ」
と植田さんは話す。ケンちゃん、というのは植田さんが太田さんには内緒でつけたあだ名である。
植田さんは、嫌いな人や何を言っても仕様がない人を同じ人間だとは思わず、その人を野生動物か何かだと思い、距離を置くようにしているのだという。
そうすることで、何故この人は自分の言っていることを聞いてくれないのだろうか、何故この人とは分かり合えないのだろうか、といちいち悩まずに済むからだそうだ。話しても分かり合えないのは、相手が野生動物だからだ。人間の言葉が通じるわけがない。
そう思うことで苦手な人を受け流す、それが彼女なりの処世術なのかもしれない。
「津山くんも、そこら辺にいる野生化したアライグマやハクビシンと楽しく会話をしようだなんて思わないでしょ?」
と笑った。さらに、
「太田さんの下の名前は謙二。それで、いっつも手を洗っているからアライグマみたい、ということで、太田さんのことはアライグマのケンちゃんって呼んでるよ」
と植田さんは続けた。
そんな太田さん……いや、ケンちゃんは2週間後、どうなったかというと、まるで別人のように変わっていた。
まず、大きな声で看護師に文句を言わなくなった。隔離が解除になってから、僕は太田さんの声を一度も聞いたことがない。
相変わらず潔癖症はあるのか、自分の部屋から出るのを極力避けているが、あんなに嫌がっていた入浴も素直に入るようになっていた。
以前は公衆電話で親に「ここから早く退院させてくれ」と全身全霊で叫ぶように訴えていたが、太田さんが電話してるのをこのところ見ていないし、看護師やソーシャルワーカーを捕まえては自分の要求ばかりを伝えるということもしなくなった。
植田さんも僕も、「あの太田さんが」とかなり驚いている。これでは牙の抜かれた猛獣、いや、牙の抜かれたアライグマといったところか。
閉鎖病棟入院記⑪
7月17日(日)
万物流転。この世にある全てのものは絶え間なく変化していく運命にある、という言葉だ。
全世界に共通するこの法則は、もちろん閉鎖病棟内にも適用される。
食堂の大きな窓から見えていた紫陽花はすっかり枯れてしまった。 旬が過ぎたのだ。梅雨が終わってこれから夏になる、たしかな予感を胸に抱いた。
花も季節も、そのままに留めておくことはできない。そしてそれは人にも言える。
先々週ぐらいから、川野さんという患者が入院していた。 どうやら彼女は高校3年生で、大学受験を間近に控えているらしい。 主治医がそれに配慮したからか、彼女は今日、入院してまだ1ヶ月も経たないうちに開放病棟へと移動していった。
今日の午後。 僕は談話コーナーで新聞を読んでいると、看護師に連れられた川野さんが植田さんに見送られて閉鎖病棟から出ていこうとしているのを見た。
そういえば、川野さんは植田さんと2人並んで病棟内の廊下を散歩しているのをよく見かけた。 川野さんは細い縁の丸眼鏡をかけた温厚そうな子で、植田さんとは歳が近いということもあり、気が合うみたいだった。
「真穂ちゃん、またね」
と手を振る植田さんは目を潤ませていた。真穂というのは川野さんの下の名前だろう。
「ちょっと! 私まで泣きそうになるからやめてよー」
川野さんは笑いながら植田さんの肩を叩いた。
「うー、ごめんごめん。また作業療法の時間に会えるだろうし、私も開放の方に移れればまた一緒にいられるよね」
植田さんは泣き笑いをして謝る。
「そうそう、だからそんなに泣かないの! 」
川野さんは涙を流す植田さんを優しく宥めるような口調で言った。
何だか2人が仲の良い姉妹のようにも思えてくる。泣きじゃくる妹をあやす姉。 姉はもちろん川野さんだ。歳上なのは植田さんの方なのだが。
結局植田さんが泣き止むことはなく、川野さんは開放病棟へと移動していった。
泣いている植田さんが放っておけなかったので、僕はおずおずと話しかけた。
「植田さん、大丈夫ですか」
「う、うん、だいじょうぶ」
ひどい鼻声だった。 とりあえず持っていたポケットティッシュを渡し、談話コーナーの椅子に一緒に座った。
「川野さんと仲良かったんですね」
「そうだね、だっだ2週間しが一緒にいれながったんだげどね」
植田さんは勢いよく鼻をかんだ。
「一緒にいたのは短かったけど、本当に色んなことを話せたよ。 学校のことや、友達のこと、病気のことや進路のこととか」
「よく2週間でそこまで仲良くなれましたね」
僕は素直に驚いていた。 こんな短期間でも人はここまで親しくなれるのかと。
「なんか、真穂ちゃんと話してると、他人って気がしなかったんだよね。 境遇とか考え方が似てたから」
「なるほど、そうだったんですね」
「今思うと、真穂ちゃんに昔の自分を勝手に投影してたのかも」
植田さんはまだ目が潤んでいたが、もう涙を流すことはなかった。もう一度、小さく鼻をかんだ。
「真穂ちゃん、その高校のバスケ部に入りたかったから、自分のレベルより少し低いけどそこに通っていたみたい。 それで成績も学年1位になれたみたいだけど、そのせいで周りの子達と上手く馴染めない時があったんだって」
「ああ、そういうことってありますよね。 僕も似たようなことがありました」
集団の中でひときわ秀でた存在になると、時に孤立してしまうこともある。 出る杭は打たれる、とでもいうのか。優秀な人の周りにいる人々は、この人は平凡で均質な私たちとは違う、調和を乱しかねない危険人物だとレッテルを貼り、距離を置こうとするのだ。
僕の場合は部活だった。中学の吹奏楽部で、1年生の時に同期で1人だけ夏のコンクールの舞台に乗せてもらえたのだ。僕の楽器はユーフォニウムだった。
ユーフォニウムの担当が部内には先輩と僕の2人しかいなかったかったことや、小学生の頃から吹いていたこともあって技術的にも問題ないと判断されたから、1年でも大会の編成に入れてもらえた。
コンクール曲を練習するとき、他の1年生は教室で基礎練をしていた。 単純に一緒に過ごす時間が少なかったということもあるのだろうが、僕は同期の中で浮いた存在となった。
「うんうん、津山くんも分かってくれる側の人なんだね。 実は私もね、真穂ちゃんみたいに自分の偏差値より低い高校で学年1位になっちゃって浮いていたからさ、何だか他人のように思えなくって」
「そうでしたか」
「それで波長が合うというか、1度話し始めると時間を忘れちゃうくらい長いこと話せちゃったんだ。 だから一緒にいたのは短い期間なはずなのに、そんな気がしなくって」
それで植田さんと川野さんは短期間でこれほどまでの絆を深めることが出来たのか。 似たもの同士、似てるからこそ相手がどんな考え方をして、物事をどのように捉えるのかが話している中でよく分かり合えたのだろう。
「それだから今日は真穂ちゃんが開放に移動しちゃうってなって、大人気なく泣いちゃったわけ。 津山くんには迷惑かけちゃったね 」
植田さんは申し訳なさそうな様子ではにかんだ。
「いえ、全然大丈夫ですよ」
実際、特に迷惑はかかってなかった。 持っていたティッシュを多めに消費されてしまったぐらいか。
「この借りはいつか返すからね! それじゃ! 」
そういって植田さんは勢いよく立ち上がり、病室の方へと去っていった。
僕も帰ろうと思い、椅子から立ち上がりふと気がついた。
そういえば、ポケットティッシュを返してもらってない。
それでも、まあいいかと思えた。 植田さんと川野さんの深い友情と比べれば、ティッシュなんて大したものじゃない。
互いを思い合う2人の絆はあまりにも尊く、僕には絶対に手の届かない、素晴らしいもののように思える。彼女らに羨望を感じながらも、僕も談話コーナーを後にした。
閉鎖病棟入院記⑩
7月13日(水)
今日は朝から小雨が降り、閉鎖病棟内にも外の湿度や蒸し暑さが広がっていた。 空調のお陰で外よりは快適なはずだが、半袖でもじんわり汗をかいた。僕は猫っ毛なので、湿度のせいで髪型が歪に膨らんでしまって少し恥ずかしかった。
昼食後に談話コーナーで新聞を読んでいると、植田さんがやってきた。彼女は 「ここ、いいかな? 」と僕の正面にある席に座った。
植田さんは僕より3個下の20歳だ。 僕は院生だが、僕と同じ学校に通う大学2年生で、今は休学中らしい。 栗色に染めた毛をショートカットにしていて、ぱっちりした二重瞼とちょっと釣り気味の眉毛が利発そうな雰囲気を醸し出している。
彼女は持ち前の明るさを活かしてこの病棟内にいる老若男女問わず色んな患者に挨拶し、仲良くなっている。
正直、植田さんのような人がどうして閉鎖病棟にいるのだろうと思ってしまうほどに、彼女は明るく、悩みなんて一つもなさそうに見えるのだ。
「津山君、よく新聞読んでるね! さすが〜!」
植田さんはニコニコしながら調子よくおだててくる。
「いや、他にやることがないからね」
僕はちょっと恥ずかしかったので、植田さんから目を逸らしてしまった。
「やっぱ政治とか国際情勢に興味があるの? 」
「うーん、そういう訳でもないかな。 ここにいると外の世界で何が起こっているかが見えにくくなるから、一応新聞を読んでおいて知っておきたいなと」
「あー、確かに! ここにいるとニュースで物価高だ、災害級の猛暑だって言われても実感しにくいもんね 」
植田さんはうんうんと頷き、僕が読んでいた新聞を覗き込んだ。
「まだロシアとウクライナって戦争してるのか…… ええっと、『ドネツク州当局は十一日、九日夜にロシア軍のミサイル攻撃を受けた同州北部チャソフヤールの五階建てアパートでの死者は二十人に達し、九歳児を含む二十人余が行方不明になっているとした。』」
国際面にある記事を一部読み上げた植田さんは、もう先程までの笑顔が消えてしまっていた。
「そうだよね、今まで普通に暮らしている場所がひとたび戦場になってしまえば、民間人でも関係なく攻撃されちゃうんだよね。 子供がいても関係ないよね…… 」
どうやらこの記事にある、行方不明者が九歳児を含むという部分に植田さんはショックを受けたようだ。さっきまでとは打って変わり、ひどく寂しそうな声で彼女は呟いた。
「子供までもが犠牲になるのは、やっぱり悲しいことだよね 」
僕はいつもの植田さんとはちょっと違う雰囲気に戸惑っていた。 彼女の様子を伺いながらも会話を続けた。
「うん…… きっと、もっと遊びたかっただろうし、もっと勉強したかっただろうし…… これから始まっていくはずだった子供たちの人生が、戦争や暴力のせいで無理やり終わらせられるのは、本当に悲しいことだよ」
植田さんは俯き、顔に影がかかる。 彼女が子供を思う気持ちは多分僕よりも強いのだろう。 それ故に、このような新聞記事に心を痛め、心の底から悲しんでいるのだ。
「植田さんは子供が好きなのかな」
僕は彼女を刺激しないよう、そっと聞いてみた。植田さんはゆっくりと頷き、
「そうだね…… 綺麗事かもしれないけど、子供たちにはいつも笑顔でいて欲しいって思っちゃう」
そう言うと俯いていた顔を上げ、うっすらと微笑んだ。
「私、入院する前はボランティアで児童養護施設に行ってたんだよね」
植田さんは談話コーナーの横にある窓を見ながら、滔々と話し始めた。
「そういう施設にいる子供たちって、大人の怖い部分を沢山見てきて、大人のことを信用出来なくなっている子が多くて。 だから、世の中にはそんな大人だけでなく、子供たちを心から愛する大人だっていることを知ってもらうために、私たちは定期的に施設に行って子供たちと遊んだり、勉強を教えてあげたりしてるんだ」
「そうだったんだ…… 」
ボランティア活動。 確かに、優しい植田さんがやっていてもおかしくない。 むしろぴったりな気がする。
「私も結構行ってたよ。 子供たちにとっても、継続的に会うことが大事だから。 1番いいのは、1度仲良くなった子が施設を卒業するまで見守ってあげることなんだけど…… 」
植田さんは目を伏せ、 一瞬泣きそうに顔を歪ませたが、すぐに元の落ち着いた表情に戻った。
「いつも行っていた施設では、私は子供たちに顔と名前を覚えてもらえて、遊びの時間になるとみんな私の所に集まってくれてた。 私の手を引っ張って鬼ごっこしよう、おままごとしようって…… ほんと可愛かったな〜 」
子供たちの喜ぶ様子を思い出しているのか、植田さんは微笑んでいた。
「植田さんは、子供たちにすぐ懐かれそうだよね」
明るくて優しい植田さんが、子供たちに大人気となっているのは容易に想像がついた。
「えへへ、まあね」
植田さんはちょっとおどけた素振りで頭をかいた。
それから、植田さんは話を続けた。
「でも、2年前くらいから感染症が流行りだした。 もちろん子供たちとふれあう時は対策をきちんとしていたよ…… いや、私の場合しすぎてたのかな 」
口角はまだ上がってはいたが、それが場を暗くしないための作り笑いであることは痛いほど伝わってきた。
「私から子供たちに、もしもウイルスをうつしてしまったらどうしよう、そんなことがあったら私は私を許せなくなるって、かなり神経質になってたんだよね。 だから手洗いもいつも2回洗ってたら、いつの間にか3回、4回と増えてしまって、気づいたら自分の力で手洗いをやめれなくなっていて…… 」
植田さんは自分の両手を見ていた。 そこで僕は、彼女の手が赤くひび割れ、皮も所々剥けて荒れていることに気がついた。
「元々、ちょっと神経質でストレスに弱い部分はあったんだけど、それが感染症対策と重なって悪い方向に進んじゃったのかな。 子供たちと会う時以外でも、自分から悪い菌やウイルスを周りにうつしてしまったらと思うと怖くて、何かある度に手洗いをするようになっちゃった 」
植田さんは荒れた手を握りしめ、僕の方へ向き直った。
「定期テスト勉強に疲れて手洗い、友人関係に悩んで手洗い、って感じで、何かストレスがある度に手を洗いたくなる衝動に駆られてた。 そんな状態がしばらく続いてある時、急にもう消えてしまいたくなって自分のアパートのベランダから飛び降りちゃった。 でも、足を骨折しただけで結局は死ねなかったんだけどね。 それでこの病院に来て、強迫性障害だと診断されたんだ」
なんてことのないように、植田さんはからっとした笑顔で話したが、きっと彼女は思い悩んでいるし、今でもその苦しみは続いているのだろう。 あの手を見ればそれがよく分かる。
「なんかごめんね、こんな話をしちゃって。 あんまり面白くなかったよね」
植田さんは苦笑いしながら謝った。
「いや、植田さんのことを色々知れて嬉しかった。 話してくれてありがとう」
僕は素直な気持ちを植田さんに伝えた。
植田さんの話を聞いて、明るい笑顔の裏にある、本当の彼女の姿をやっと見つけることが出来たような気がした。
それと同時に、今まで僕は植田さんを知ろうともしなかったことに後悔していた。 何が悩みなんて一つもなさそうだ。 彼女がここにいるというのはそういう事じゃないか。
心の病気というのは、見た目からは絶対に分からない。 だからこそ、こちらから理解しようと務めなければ一生分からないままなのだ。 僕は今回の件で改めてそれを痛感した。
閉鎖病棟入院記⑨
7月9日(土)
309号室の太田さんは、僕の苦手な人だった。 30代の男性患者で、伸び放題でボサボサな髭に、何日も風呂に入っていないような嫌なテカリのある頭がなんとも清潔感に欠ける。実際、閉鎖病棟に入院してから入浴を拒否しているらしい。
そんな太田さんだが、実は極度の潔癖症である。
トイレのドアや洗面所の蛇口など、誰がどんな手で触ったか分からない物を触るのが苦痛らしく、触ったあとは念入りに手を洗っている。
手を洗うのに使う洗面台でも、4つある中で使える所と使えない所があるらしい。
病棟内のロの字型の廊下を、看護室や談話コーナーのある方から見た時の右辺と左辺に2個ずつ洗面台があるのだが、右辺の洗面台2つは、柴田さんがトイレットペーパーを耳に詰める際に出た屑が落ちていたので無理、左辺側にある左の洗面台は、誰かが歯ブラシを蛇口にくっ付けて洗っているのをみたので無理、と彼にとって共用の洗面所は”使ってはいけない”洗面台ばかりだそうだ。
唯一使ってもよいと認めた洗面台なのか、太田さんはいつも、左辺側、談話コーナーの傍にある右の洗面台で手を洗っているのをよく見かける。ひょろりと背が高いので、洗面所で手を洗っているだけでも結構目立つのだ。
ただ手を頻繁に洗うだけなら良かったのだが、彼の悪癖はそれだけではなかった。
太田さんは、周りの患者に対して攻撃的な態度を取る。
彼の病室である309号室に間違えて入ってしまったお婆さんがいたのだが、そのお婆さんに対して、「ふざけるな! 汚い手で扉を触るんじゃない! 」と激怒したのだ。
お婆さんには認知症の傾向があったので、部屋を間違えるのは仕方のないことだ。 お婆さんは彼にしっかりと謝った。それなのに彼は怒り続け、看護師に大声で抗議し始めたのだ。
「あの人、前も注意したのにまた入って来たんですよ。 それって、もう言っても意味がないってことですよね? ならもう、隔離にでも入れといた方がいいんじゃないですか? こっちも、あの人が触ったせいでドアをウェットティッシュで拭かないといけないんです。 あの人のせいで僕のウェットティッシュが消費されるってのもおかしな話でしょ? 何とかならないんですか? 」
こんな具合に、早口で捲し立てるのだ。 聞いている看護師も困った様子で、「そうですね、でもあの方も悪気があったわけではないんですよ」と優しい口調で宥めるが、彼は中々落ち着きを取り戻さなかった。
他にも、お気に入りの洗面台で手を洗っている太田さんに、廊下を徘徊していた女子中学生の小森さんが少し近付いてしまった時があった。
近づくといっても、20センチくらいの距離はあったと思う。 それでも太田さんは気に食わなかったらしく、歩いて行く小森さんの背中に「近い!」と罵声を浴びせた。
彼は小森さんを敵対視しており、彼女がまるで汚い物であるかのように見る。 小森さんがちょっと風変わりであることから、彼女が汚い物を触ってもちゃんと洗っていないだろうと決めつけているのだ。
それだけでは怒りが収まらなかったようで、看護室まで行って大声で不平不満をぶちまけていた。
僕は潔癖症という病気のことを詳しく知らないのだが、汚い物を触るのは酷く嫌がるが、自分の体が汚いことには何とも思わないのは傍から見ていると辻褄が合わないようにも思えてしまう。彼の中では彼なりの論理があり、これでも整合性がとれているのだろうか。
今日の午前中に、僕は談話コーナーで新聞を読んでいた。 どの面を見ても、元首相が銃殺された事件の関連記事ばかりで食傷気味になっていた。
開いた新聞を閉じ、1番後ろにある干支占いをぼうっと眺めていると、目の前にある電話ボックスからガチャガチャと凄い物音がした。
びっくりして見てみると、太田さんが公衆電話の乗ったスタンドの下にある、少しぐらついている金属の土台を足で弄っているのだ。
受話器を片手に持ったままだったので、誰かに電話を掛けている最中らしい。
中々かからないことに苛立っているのか、騒々しいガチャガチャ音は暫く続き、僕は新聞を読むどころではなくなってしまった。
それから数分後。 やっと電話が繋がったのか、太田さんの足の動きは止まった。
電話の相手は誰だか分からないが、太田さんはいつもよりも早口に電話相手に自分の要求を伝えていた。
「だからウェットティッシュ。 アルコールのやつ。 ちゃんと送って。 ……だから、それを送らないってことは俺に死ねっていってるのと同じなの! これ公衆電話で、時間もないから何度も言わせないで。 なんでわかんないかな〜」
電話ボックスの中にいるのに、太田さんの声はよく通っていた。 彼はしばらくウエットティッシュの重要性を訴えかけていたが、そのうちに自分の現状がいかに酷いのかを説明し始めた。
「ここには沢山人がいて、誰が触ってるのか分からないような場所ばかりで、いつも手を洗わないといけないんだよ。 話の通じない看護師や患者ばっかだし。この前だって誰が使ったかも分からない風呂場に入るのは嫌だって看護師にいっても、無理やり風呂に入らせようとしてきたし、俺は人間としての尊厳を奪われてるの! 」
彼の訴えはどんどんヒートアップしていくばかりだ。語気はさらに強く、声はさらに大きくなり、病棟内全体に響いているのではないかと心配になった。
「だから、ここから出たいというのはソーシャルワーカーとか医者にも何度も言ってるの。あとはあんたが退院させたいって言わない限りは俺はここから出られないの。早く退院の手続きをやって!! 俺に死ねっていいたいの? ここに居続けたら俺多分死ぬよ? はやく!!はやく!! はやく!!!」
太田さんは受話器にかじりつき、それはもう必死の形相で相手方に自分の要求を通そうとしている。 その様子を見ていて僕は、太田さんが滑稽にも、哀れにも思えてきた。
309号室の太田さんは、僕の苦手な人”だった”。
こんなにも必死になって、簡単に退院出来るわけもない閉鎖病棟から出ようとしている姿を見ていると、水面に落ちてもがく羽虫を上から眺めているような、冷めた憐れみを抱くのである。
誰かを憐れむ時、人はその対象を無意識に見下している。
今の僕には、太田さんは自分と同じ人間ではなく、もっと可哀想で、もっとどうしようもない生き物とも思えるのだった。
もはや、太田さんは苦手な”人”ですらなかった。
閉鎖病棟入院記⑧
7月7日(木)
「今日、小森さんが退院するそうだよ」
朝食の済んだ後にそう教えてくれたのは、入院当初からよく話をしている植田さんという女性患者だった。 お互い20代前半と歳が近く、学部は違うが同じ大学出身であるので、植田さんにはある種の親しみやすさを感じている。
小森さんは女子中学生で、入院歴もかなり長いと聞いたことがある。 夢でも見ているかのようなぼんやりとした目をしながらロの字型になっている病棟内の廊下をグルグル歩き、1人で笑ったり、歌ったり、喋ったりしているのをよく見かけた。 髪型には無頓着なのか、ショートヘアのくせっ毛にひどい寝癖が残った状態でも平気そうにしている。
僕は小森さんに話しかけたことは無いが、植田さんは気さくで話好きだからか、老若男女問わず誰とでも楽しく会話出来るので、少し取っ付きにくい雰囲気を持つ小森さんとも仲良くなったのだろう。
「今日の1時に退院するみたい。 私は見送りしようと思うけど、津山くんもどう? 」
植田さんは屈託のない笑顔を見せる。
「そうだな…… じゃあ僕も参加しようかな」
小森さんとはあまり面識はないが、日頃仲良くしてもらっている植田さんの誘いは断りにくかった。
「うん! ありがとう! じゃあ私、他の方にも伝えてくる! 」
植田さんはそういうと、軽やかに去っていった。
シーツ交換が終わった10時半頃、僕はトイレに行こうと思い自室を出たところで、一人で楽しそうに笑う小森さんとばったり会った。
僕はせっかくなので小森さんに話しかけようと思い、勇気を出して話しかけてみた。
「小森さん、今日退院なんだってね」
「……はい、そうなんです」
鈴を転がすような、透き通った可愛らしい声で小森さんは返事をした。
小森さんと普通に会話が出来ることや、声がとても綺麗なことに驚き、しばらく言葉が出なかったが、すぐに気を取り直し会話を続けた。
「退院おめでとう。 退院したら何かやりたいことはあるの? 」
「そうですね、今日の七夕祭りに行きたいです」
そういえば今日は7月7日、七夕の日だった。確か、市内では毎年七夕祭りが開催されるのだ。かなり大規模な催しで、全国的にも有名らしい。 小森さんはそれに行きたいのだろう。
「そっか…… それじゃあ楽しんできてね」
「はい、ありがとうございます」
小森さんは小さくお辞儀をすると、また歩き出した。
そして午後1時。 閉鎖病棟の外へと繋がる扉近くに7人の患者達が集まった。
扉の横にはナースステーションがあり、その前は談話コーナーもある広々としたスペースになっている。 そこで患者達は小森さんはまだだろうか、そろそろだろうかと身を寄せあって話していた。
「小森さん、遅いね」
僕は植田さんに話しかけてみた。
「確かにさっきは、1時には荷物をまとめて出ていくって言ってたんだけどな…… 」
植田さんは困った顔で腕を組んでいた。
そこへ、ナースステーションから1人の看護師が出てきた。 患者がそんなに集まって一体何事かと心配した様子で、「どうされましたか? 」と声をかけてきた。
「小森さんが今日の1時に退院するらしいので、皆で見送りに来ました」
植田さんはハキハキと説明した。
しかし、看護師は訝しげな様子で首を傾げた。
「小森さんが退院するって、本人がいってたんですか?」
「はい、そうですけど…… 」
「小森さんは確か、今日そういう予定は無いはずですよ。 一応確認してきますね」
看護師はそう言って、駆け足でナースステーションに戻って行った。
数分後。 その看護師はすぐに戻ってきた。
「小森さんの主治医にも確認しましたが、やはり今日退院する予定は無いですね」
集まった一同は顔を見合せ、その後植田さんの方を見た。
植田さんは、「本人が退院するって確かに言ってたんですよ…… 」と主張するも、しりすぼみになってしまっていて自信なさげであった。
これは一体どういうことなんだ、と皆が首を傾げたその時。 小森さんが向こうから歩いてきたのだ。
植田さんは小森さんに走りより、「今日退院って言ってたよね? 」と余裕の無い様子で詰め寄る。
小森さんは相変わらずのぼんやりとした表情で、「そうですよ」と即答した。
「でも、看護師さんは小森さんは今日退院しないって言ってたよ」
本人がこれではますます分からなくなった。 皆の間に沈黙が訪れる。
その沈黙を破ったのは、小森さんだった。
「テレパシーです」
「へ?」
植田さんは素っ頓狂な声を出す。
「テレパシーなんです。 自分以外の声で、頭の中に聞こえるんです」
小森さんは、それがさも当然かのように話を続けた。
「昨日の夜、明日は退院できるよってテレパシーがきました。 だから今日退院するんです 」
小森さんは嬉しそうにニコニコとしていた。 それとは対照的に、見送りに来た僕達は渋い顔をしていた。
「そ、そっか! テレパシーだったんだね! うんうん 」
植田さんは無理やり納得したように、苦笑いして何度も頷いていた。
恐らく、小森さんの言う”テレパシー”は統合失調症などによくある幻聴なのだろう。
しかし、無邪気に七夕祭りを心待ちにしている小森さんに対し、面と向かってそれは幻聴であり、君の妄想なのだと説明することは、そこにいる誰にも出来なかった。
閉鎖病棟ニュース(閉鎖病棟入院記⑦)
〇洗面所で排尿、男を隔離病棟に拘禁
病棟内の共用の洗面所で昨晩、301号室の柴田勝則(52)が排尿をしたため、看護師らが男を隔離病棟に連行した。
調べによると、7月5日午後9時30分ごろ、共用の洗面所にて男が陰部を露出し、洗面所内の洗面ボウルに排尿しているところを同病棟の女性患者が目撃し、ナースステーションに通報をしたようだ。男は通報により出動した看護師らにより、そのまま隔離病棟へ連行された。男は連行後、「トイレでしたつもりだった」などと供述しており、反省の色は全く見えなかった。
男が入る病室付近の患者の証言によると、男は普段から奇妙な行動をしていたようだ。女子トイレに侵入し、トイレットペーパーを盗んだり、そのトイレットペーパーを用いて共用の洗面所内で丸出しにした臀部を拭いたりしていたらしい。
看護師らにより当洗面所の洗面ボウルはすぐに徹底消毒され、使用できる状態まで洗浄された。
〇15歳の少年、開放病棟へ
昨日、閉鎖病棟に入院中だった高橋真澄くん(15)が、開放病棟へ移動していった。
高橋くんの主治医によると、高橋くんは数日前から病状が安定してきており、閉鎖病棟から開放病棟に移動しても問題ないと判断したそうだ。
開放病棟は閉鎖病棟よりも、外との行き来や持ち込む物品の制限が緩和されており、患者の出来ることが大幅に増える。
高橋くんは入院前、不安症状から自傷行為を繰り返しており、それを心配した親が彼を精神病院に入院させた。 医師の診断では双極性障害だった。 閉鎖病棟で数週間治療を続けた結果、絵を描くことや本を読むことなど、自傷行為以外の不安を解消する方法を見つけることが出来たらしい。
高橋くんは病棟内で出来た友人達に見送られ、笑顔で閉鎖病棟を出ていった。
〇アサガオ満開、カレンダー作り
本日午前9時30分から、月に一度の病棟内での作業療法が行われた。
作業療法は、手芸や運動などの作業活動を通して心身の機能の維持・向上を図る治療法だ。
今回は作業療法士の指導の元、参加希望した患者5人で7月のカレンダーを作った。
カレンダーの数字を書く人、折り紙でアサガオやセミを折って飾る人と、患者の中で役割分担をして作業を進めていた。
途中、参加していた男性患者の鈴木さん(54)の失踪(後に病室の冷蔵庫内から発見された)や、女性患者の長谷川さん(49)が乱入し、松崎しげるの『ルビーの指環』を熱唱するなどのハプニングもあったが、無事に完成することができた。
患者一人一人が作った、個性豊かなアサガオとセミで飾られた、賑やかで夏らしいカレンダーは、食堂に貼られることとなった。