7月17日(日)
万物流転。この世にある全てのものは絶え間なく変化していく運命にある、という言葉だ。
全世界に共通するこの法則は、もちろん閉鎖病棟内にも適用される。
食堂の大きな窓から見えていた紫陽花はすっかり枯れてしまった。 旬が過ぎたのだ。梅雨が終わってこれから夏になる、たしかな予感を胸に抱いた。
花も季節も、そのままに留めておくことはできない。そしてそれは人にも言える。
先々週ぐらいから、川野さんという患者が入院していた。 どうやら彼女は高校3年生で、大学受験を間近に控えているらしい。 主治医がそれに配慮したからか、彼女は今日、入院してまだ1ヶ月も経たないうちに開放病棟へと移動していった。
今日の午後。 僕は談話コーナーで新聞を読んでいると、看護師に連れられた川野さんが植田さんに見送られて閉鎖病棟から出ていこうとしているのを見た。
そういえば、川野さんは植田さんと2人並んで病棟内の廊下を散歩しているのをよく見かけた。 川野さんは細い縁の丸眼鏡をかけた温厚そうな子で、植田さんとは歳が近いということもあり、気が合うみたいだった。
「真穂ちゃん、またね」
と手を振る植田さんは目を潤ませていた。真穂というのは川野さんの下の名前だろう。
「ちょっと! 私まで泣きそうになるからやめてよー」
川野さんは笑いながら植田さんの肩を叩いた。
「うー、ごめんごめん。また作業療法の時間に会えるだろうし、私も開放の方に移れればまた一緒にいられるよね」
植田さんは泣き笑いをして謝る。
「そうそう、だからそんなに泣かないの! 」
川野さんは涙を流す植田さんを優しく宥めるような口調で言った。
何だか2人が仲の良い姉妹のようにも思えてくる。泣きじゃくる妹をあやす姉。 姉はもちろん川野さんだ。歳上なのは植田さんの方なのだが。
結局植田さんが泣き止むことはなく、川野さんは開放病棟へと移動していった。
泣いている植田さんが放っておけなかったので、僕はおずおずと話しかけた。
「植田さん、大丈夫ですか」
「う、うん、だいじょうぶ」
ひどい鼻声だった。 とりあえず持っていたポケットティッシュを渡し、談話コーナーの椅子に一緒に座った。
「川野さんと仲良かったんですね」
「そうだね、だっだ2週間しが一緒にいれながったんだげどね」
植田さんは勢いよく鼻をかんだ。
「一緒にいたのは短かったけど、本当に色んなことを話せたよ。 学校のことや、友達のこと、病気のことや進路のこととか」
「よく2週間でそこまで仲良くなれましたね」
僕は素直に驚いていた。 こんな短期間でも人はここまで親しくなれるのかと。
「なんか、真穂ちゃんと話してると、他人って気がしなかったんだよね。 境遇とか考え方が似てたから」
「なるほど、そうだったんですね」
「今思うと、真穂ちゃんに昔の自分を勝手に投影してたのかも」
植田さんはまだ目が潤んでいたが、もう涙を流すことはなかった。もう一度、小さく鼻をかんだ。
「真穂ちゃん、その高校のバスケ部に入りたかったから、自分のレベルより少し低いけどそこに通っていたみたい。 それで成績も学年1位になれたみたいだけど、そのせいで周りの子達と上手く馴染めない時があったんだって」
「ああ、そういうことってありますよね。 僕も似たようなことがありました」
集団の中でひときわ秀でた存在になると、時に孤立してしまうこともある。 出る杭は打たれる、とでもいうのか。優秀な人の周りにいる人々は、この人は平凡で均質な私たちとは違う、調和を乱しかねない危険人物だとレッテルを貼り、距離を置こうとするのだ。
僕の場合は部活だった。中学の吹奏楽部で、1年生の時に同期で1人だけ夏のコンクールの舞台に乗せてもらえたのだ。僕の楽器はユーフォニウムだった。
ユーフォニウムの担当が部内には先輩と僕の2人しかいなかったかったことや、小学生の頃から吹いていたこともあって技術的にも問題ないと判断されたから、1年でも大会の編成に入れてもらえた。
コンクール曲を練習するとき、他の1年生は教室で基礎練をしていた。 単純に一緒に過ごす時間が少なかったということもあるのだろうが、僕は同期の中で浮いた存在となった。
「うんうん、津山くんも分かってくれる側の人なんだね。 実は私もね、真穂ちゃんみたいに自分の偏差値より低い高校で学年1位になっちゃって浮いていたからさ、何だか他人のように思えなくって」
「そうでしたか」
「それで波長が合うというか、1度話し始めると時間を忘れちゃうくらい長いこと話せちゃったんだ。 だから一緒にいたのは短い期間なはずなのに、そんな気がしなくって」
それで植田さんと川野さんは短期間でこれほどまでの絆を深めることが出来たのか。 似たもの同士、似てるからこそ相手がどんな考え方をして、物事をどのように捉えるのかが話している中でよく分かり合えたのだろう。
「それだから今日は真穂ちゃんが開放に移動しちゃうってなって、大人気なく泣いちゃったわけ。 津山くんには迷惑かけちゃったね 」
植田さんは申し訳なさそうな様子ではにかんだ。
「いえ、全然大丈夫ですよ」
実際、特に迷惑はかかってなかった。 持っていたティッシュを多めに消費されてしまったぐらいか。
「この借りはいつか返すからね! それじゃ! 」
そういって植田さんは勢いよく立ち上がり、病室の方へと去っていった。
僕も帰ろうと思い、椅子から立ち上がりふと気がついた。
そういえば、ポケットティッシュを返してもらってない。
それでも、まあいいかと思えた。 植田さんと川野さんの深い友情と比べれば、ティッシュなんて大したものじゃない。
互いを思い合う2人の絆はあまりにも尊く、僕には絶対に手の届かない、素晴らしいもののように思える。彼女らに羨望を感じながらも、僕も談話コーナーを後にした。