嘘八百日記

このブログ記事は全てフィクションです。

閉鎖病棟入院記⑩

7月13日(水)

今日は朝から小雨が降り、閉鎖病棟内にも外の湿度や蒸し暑さが広がっていた。 空調のお陰で外よりは快適なはずだが、半袖でもじんわり汗をかいた。僕は猫っ毛なので、湿度のせいで髪型が歪に膨らんでしまって少し恥ずかしかった。

昼食後に談話コーナーで新聞を読んでいると、植田さんがやってきた。彼女は 「ここ、いいかな? 」と僕の正面にある席に座った。

植田さんは僕より3個下の20歳だ。 僕は院生だが、僕と同じ学校に通う大学2年生で、今は休学中らしい。 栗色に染めた毛をショートカットにしていて、ぱっちりした二重瞼とちょっと釣り気味の眉毛が利発そうな雰囲気を醸し出している。

彼女は持ち前の明るさを活かしてこの病棟内にいる老若男女問わず色んな患者に挨拶し、仲良くなっている。 

正直、植田さんのような人がどうして閉鎖病棟にいるのだろうと思ってしまうほどに、彼女は明るく、悩みなんて一つもなさそうに見えるのだ。

「津山君、よく新聞読んでるね! さすが〜!」

植田さんはニコニコしながら調子よくおだててくる。 

「いや、他にやることがないからね」

僕はちょっと恥ずかしかったので、植田さんから目を逸らしてしまった。

「やっぱ政治とか国際情勢に興味があるの? 」

「うーん、そういう訳でもないかな。 ここにいると外の世界で何が起こっているかが見えにくくなるから、一応新聞を読んでおいて知っておきたいなと」

「あー、確かに! ここにいるとニュースで物価高だ、災害級の猛暑だって言われても実感しにくいもんね 」

植田さんはうんうんと頷き、僕が読んでいた新聞を覗き込んだ。 

「まだロシアとウクライナって戦争してるのか…… ええっと、『ドネツク州当局は十一日、九日夜にロシア軍のミサイル攻撃を受けた同州北部チャソフヤールの五階建てアパートでの死者は二十人に達し、九歳児を含む二十人余が行方不明になっているとした。』」

国際面にある記事を一部読み上げた植田さんは、もう先程までの笑顔が消えてしまっていた。

「そうだよね、今まで普通に暮らしている場所がひとたび戦場になってしまえば、民間人でも関係なく攻撃されちゃうんだよね。 子供がいても関係ないよね…… 」

どうやらこの記事にある、行方不明者が九歳児を含むという部分に植田さんはショックを受けたようだ。さっきまでとは打って変わり、ひどく寂しそうな声で彼女は呟いた。 

「子供までもが犠牲になるのは、やっぱり悲しいことだよね 」

僕はいつもの植田さんとはちょっと違う雰囲気に戸惑っていた。 彼女の様子を伺いながらも会話を続けた。

「うん…… きっと、もっと遊びたかっただろうし、もっと勉強したかっただろうし…… これから始まっていくはずだった子供たちの人生が、戦争や暴力のせいで無理やり終わらせられるのは、本当に悲しいことだよ」

植田さんは俯き、顔に影がかかる。 彼女が子供を思う気持ちは多分僕よりも強いのだろう。 それ故に、このような新聞記事に心を痛め、心の底から悲しんでいるのだ。

「植田さんは子供が好きなのかな」

僕は彼女を刺激しないよう、そっと聞いてみた。植田さんはゆっくりと頷き、

「そうだね…… 綺麗事かもしれないけど、子供たちにはいつも笑顔でいて欲しいって思っちゃう」

そう言うと俯いていた顔を上げ、うっすらと微笑んだ。

「私、入院する前はボランティアで児童養護施設に行ってたんだよね」

植田さんは談話コーナーの横にある窓を見ながら、滔々と話し始めた。

「そういう施設にいる子供たちって、大人の怖い部分を沢山見てきて、大人のことを信用出来なくなっている子が多くて。 だから、世の中にはそんな大人だけでなく、子供たちを心から愛する大人だっていることを知ってもらうために、私たちは定期的に施設に行って子供たちと遊んだり、勉強を教えてあげたりしてるんだ」

「そうだったんだ…… 」

ボランティア活動。 確かに、優しい植田さんがやっていてもおかしくない。 むしろぴったりな気がする。

「私も結構行ってたよ。 子供たちにとっても、継続的に会うことが大事だから。 1番いいのは、1度仲良くなった子が施設を卒業するまで見守ってあげることなんだけど…… 」

植田さんは目を伏せ、 一瞬泣きそうに顔を歪ませたが、すぐに元の落ち着いた表情に戻った。

「いつも行っていた施設では、私は子供たちに顔と名前を覚えてもらえて、遊びの時間になるとみんな私の所に集まってくれてた。 私の手を引っ張って鬼ごっこしよう、おままごとしようって…… ほんと可愛かったな〜 」

子供たちの喜ぶ様子を思い出しているのか、植田さんは微笑んでいた。

「植田さんは、子供たちにすぐ懐かれそうだよね」 

明るくて優しい植田さんが、子供たちに大人気となっているのは容易に想像がついた。 

「えへへ、まあね」

植田さんはちょっとおどけた素振りで頭をかいた。

それから、植田さんは話を続けた。

「でも、2年前くらいから感染症が流行りだした。 もちろん子供たちとふれあう時は対策をきちんとしていたよ…… いや、私の場合しすぎてたのかな 」

口角はまだ上がってはいたが、それが場を暗くしないための作り笑いであることは痛いほど伝わってきた。

「私から子供たちに、もしもウイルスをうつしてしまったらどうしよう、そんなことがあったら私は私を許せなくなるって、かなり神経質になってたんだよね。 だから手洗いもいつも2回洗ってたら、いつの間にか3回、4回と増えてしまって、気づいたら自分の力で手洗いをやめれなくなっていて…… 」

植田さんは自分の両手を見ていた。 そこで僕は、彼女の手が赤くひび割れ、皮も所々剥けて荒れていることに気がついた。

「元々、ちょっと神経質でストレスに弱い部分はあったんだけど、それが感染症対策と重なって悪い方向に進んじゃったのかな。 子供たちと会う時以外でも、自分から悪い菌やウイルスを周りにうつしてしまったらと思うと怖くて、何かある度に手洗いをするようになっちゃった 」

植田さんは荒れた手を握りしめ、僕の方へ向き直った。

定期テスト勉強に疲れて手洗い、友人関係に悩んで手洗い、って感じで、何かストレスがある度に手を洗いたくなる衝動に駆られてた。 そんな状態がしばらく続いてある時、急にもう消えてしまいたくなって自分のアパートのベランダから飛び降りちゃった。 でも、足を骨折しただけで結局は死ねなかったんだけどね。 それでこの病院に来て、強迫性障害だと診断されたんだ」

なんてことのないように、植田さんはからっとした笑顔で話したが、きっと彼女は思い悩んでいるし、今でもその苦しみは続いているのだろう。 あの手を見ればそれがよく分かる。

「なんかごめんね、こんな話をしちゃって。 あんまり面白くなかったよね」

植田さんは苦笑いしながら謝った。 

「いや、植田さんのことを色々知れて嬉しかった。 話してくれてありがとう」

僕は素直な気持ちを植田さんに伝えた。

植田さんの話を聞いて、明るい笑顔の裏にある、本当の彼女の姿をやっと見つけることが出来たような気がした。 

それと同時に、今まで僕は植田さんを知ろうともしなかったことに後悔していた。 何が悩みなんて一つもなさそうだ。 彼女がここにいるというのはそういう事じゃないか。 

心の病気というのは、見た目からは絶対に分からない。 だからこそ、こちらから理解しようと務めなければ一生分からないままなのだ。 僕は今回の件で改めてそれを痛感した。