嘘八百日記

このブログ記事は全てフィクションです。

異常独身男性の憂欝④

その日の深夜。

俺は自室で寝ていたのだが、尿意を催してしまったので、眠い目をこすりながら手洗いに向かった。

俺の部屋から廊下を挟んで向かい側に村雨さんの部屋がある。なので、トイレに行く途中に彼女の部屋の前を通るのだ。

この扉の向こうで村雨さんが寝ているのだと考えると、自然と鼓動が早くなる。そんなに意識しているのが何だか恥ずかしくなったので、急いで通り過ぎようと思ったその時。

「はい、分かりました」

扉の向こうから、声が聞こえてきた。村雨さんの声だ。誰かと電話でもしているのだろうか。

「そうですね…… ――に喋らせるですね。あとは適度に――――――を取る。あとは研修時に学んだことを元に対処すればいいですよね」

かなり小声だからか、ところどころ聞こえない部分もあった。一体何の話をしているのだろう。

少し気になったが、彼女にもプライベートがあるので詮索するのは良くないと思うし、何より早くトイレに行きたい。

俺は足音を立てないよう、小走りにトイレへと向かった。

 

村雨さんとのデート当日の日曜日。

俺は午前中に急遽、仕事の用事が入ってしまったため、午後1時に現地集合ということになった。

村雨さんとの待ち合わせは、繁華街が近い駅の東口改札だった。

午前中の用事が予想以上に長引き、待ち合わせに遅れそうだったため、俺は気持ちはやめに歩を進めた。

村雨さんと、いや、女性と出かけるのは初めてなので、少し楽しみな反面、上手くやれるのかといった不安が頭の中の大部分を占めている。

デートについて分からないことだらけだったので、前日の夜にネットで色んなページを見た。

検索履歴は『男性 デート 気を付けること』『デート おすすめ 場所』『男性 デート マナー』といったワードで埋め尽くされていた。

しかし、そんな風に焦ってネットサーフィンしたところで、それは付け焼刃に過ぎない。俺はこれまでの積み重ねが一切ないので、いざデート本番になっても緊張のしすぎで自然でスマートに振舞える自信がない。

昨日見たページの中で、男性のヘアセット方法を説明する物もあり、そこでは男性も髪型に気を付けるのが当たり前だというように書かれていた。それを見た俺は、かなり焦った。

髪を切るのはいつも1000円カットだし、ワックスを使ってヘアセットをしようと思ったことが今までで一度もない。

昨日の夜に急いでコンビニに行き、適当に目についたワックスを買った。今日の朝はそれを使い、ヘアセットの解説動画を見ながら、見よう見まねで髪の毛をセットしてみたのだが、やはり上手くいかなかった。

選んだワックスが悪かったようで、髪の毛がかなり不自然な固まり方になってしまったり、なぜか前髪が割れてしまったり、手先が不器用すぎて輪郭が思うように形作れなかったり、散々な仕上がりになってしまった。

駅構内にある売店のガラスドアに映る自分の姿が目に入る。

寝ぐせを直し忘れたかのような、ぼさぼさな髪。高校の制服の上に着ていた、10年物の紺色のダッフルコート。あちこちがほつれて毛玉がついたままになっている。随分前に買った、履き古したスニーカー。靴底が削れてしまい、表面には乾燥した泥がついている。

これが、今の自分にできる精一杯のおしゃれだった。

 あまりにも情けなくて、周りの目が気になって仕方がない。これまではこんな風体でも気に留めることはなかったのだが、女性とのデートともなると、嫌でも自分の姿と向き合う必要が出てくる。女性の前ではなるべく理想の自分に近い姿でいたい、というどうしようもない見栄が自然と俺の心に沸き上がってくるのだ。

すれ違う人全てに、お前はみっともないぞ、と笑われているような気がしてきた。このまま帰りたいという気持ちに襲われたが、村雨さんが既に待ち合わせ場所に来ているはずだ。流石に彼女を置いて帰ることは出来ない。

 俺はなるべく、行きかう人々を視界に入れないよう、うつむきながら歩いた。

東口の改札付近までくると、村雨さんの方から声をかけてきてくれた。

「佐藤様、お仕事お疲れ様でした」

今日の村雨さんはいつもの黒いスーツ姿ではなかった。

ベージュ色をした厚手のワンピースに黒タイツ、茶色のチェスターコートといった清楚な出で立ちだ。小柄で華奢な村雨さんによく似合っていた。

いつものジャケットにタイトスカートではなく、ラフな恰好の村雨さんに不覚にもドキっとしてしまった。いつもよりちょっと大人びて見えるからだろうか。

「それじゃあ、どこに行きます? 」

村雨さんは小首を傾げて俺に尋ねる。

「えっ、えっと、どうしようかな…… 」

いつもと違う雰囲気の村雨さんを前にして、頭の中が真っ白になった。服を買いにどこへ行こうかは昨日きちんと調べたのだが、ちゃんと頭にインプットされてなかったのだ。

急いでスマホを取り出し、地図検索をし始めるが回線が遅くてなかなか表示されない。

「そういえば、あっちの方にいい感じのビルがありました! 今日はそこで服を見るのはどうでしょうか? 」

そんな俺を見かねたのか、村雨さんは地上に続く出口の階段を指さして言った。

「あ、そうですね…… 」

「じゃあ、行きましょうか」

村雨さんはいつもと同様に、にこやかである。歩き出した彼女の小さな背中を見ながら、初っ端からちゃんとリード出来なかったことに対して落ち込んでいた。

 東口のファッションビルに着いた。来ている客は若者が多く、高校生と思わしき人もいるのが印象的であった。女性の服以外にも、男性の服を扱うフロアがあるからか、男女のカップルがやけに多い。

これまでは、そんなカップルを街中で見かけると嫌な気分になることが多かった。

恋人を横に連れて歩いている男性たちは皆一様に自信に満ち溢れた顔をし、堂々としているのだ。

そんな彼らを見ていると、彼らと比べて自分がいかに劣っているのかに気づかされてしまう。彼らが持っている様々なものを、自分は持っていないのだと嫌でもわかってしまう。

だが、今日はそういったことはあまりなかった。不快感が全くないとは言えないのだが、いつもよりは嫌な劣等感に苛まれることが少なかった。何故なのだろうか。

俺はその理由をすぐには見つけることが出来なかった。とりあえず、いつもより傷つかないのなら、それは良いことだ。気にする必要はないのだろう。

「その、村雨さんはどんな服を買いたいんですか? 」

煌びやかな内装の化粧品店が並ぶ通路を歩きながら、何となくそんなことを聞いてみた。

「そうですね…… あまりファッションには詳しくないので、よくわからないです。 どんな服だといいのでしょうか…… 」

少し困った様子で村雨さんが答える。軽く曲げた人差し指を下唇に当てながら、一生懸命に考えてる姿は可愛らしかった。

「そうだ! 佐藤様が好きだと思う服を着てみたいです! 」

村雨さんは微笑みながら俺の目を見る。

「えっ、でも、俺の方が服には全然詳しくないと思うし…… 」

「いろいろなお店を見て、佐藤様がいいな、と思う服がある店があったら教えて下さい! そこで服を選びたいです」

「……分かりました。 それならできるかもしれないです」

そんな風に女性の服を見る機会はあまりなかったが、こんなに沢山の店があるのだから、俺が可愛いと思う服を扱っている店の一つや二つはあるのだろう。

エスカレーターを使って上の階へと進んだ。このフロアはカジュアルなブランドが集まっていた。

「こういうのは佐藤様的にはどうですかね? 」

村雨さんはとある店の入り口に飾ってあるマネキンを指さした。

大きなサイズのトレーナーに細身のジーパン、キャップを合わせたコーディネートだ。詳しいことは分からないが、スポーティでお洒落だとは感じた。だが、俺の好みかというと少し違うような気がした。

「お洒落でいいとは思うけど、そこまでかな……」

俺は正直に思ったことを伝えた。

「なるほど。 こういうのは佐藤様の好みではないんですね! 参考になります」

村雨さんは特に気を悪くすることなく、あっさりとそのマネキンを見るのをやめて次の店へと向かった。

それから、アパレル店の並ぶ通りをぶらぶらと歩きながら、服を見て行った。

自分一人では絶対に来ることのない、洒落た店が立ち並ぶ中、俺は居心地の悪さを感じていた。こんなところに自分のような、垢抜けない男がいてもいいのだろうか。

何より、村雨さんのような素敵な女性の隣を歩く資格があるのだろうか、と不安になってしまう。

村雨さんは自分のタイプだからという贔屓目を抜きにしても、かなり美形だと思う。実際、すれ違う男たちも村雨さんの方をじっと見ている奴が多い。

自然と注目を集めてしまうような、そんな魅力的な女性の横に、俺みたいな冴えない男が歩いていたとしたら。

周りの目が怖い。すれ違う人々は、何でお前みたいな奴が美人の横を平気で歩いているのか、と疑問に思っているに違いない。

村雨さんに申し訳ない。村雨さんはいつものスーツ姿でなく、綺麗なワンピース姿だし、髪や肌の手入れも普段からきちんとしているのか、見苦しいと思う部分が一切ない。それなのに俺は。

すれ違う人と目を合わせないよう、俺は自身のつま先を見つめながら歩く。薄汚れた、泥だらけのスニーカーが俺の視界を占めた。

次の階は、女性らしい服を取り扱っている店が多いフロアだった。店頭に飾ってある服もスカートやキレイめなブラウスなど、先ほどのフロアとはまた違った雰囲気のブランドが並んでいた。

「この階ならひょっとすると佐藤様が気に入る服があるかもしれませんね」

俺の隣を歩く村雨さんは柔らかな笑みを浮かべてこちらの様子を伺う。

「えぇ、そうですね」

確かに、さっきまでいた階に多く見受けられた、ジーパンやTシャツといった男女共に着れる服装より、スカートやワンピースなどの、女性にしか許されないフェミニンな服装の方が個人的には好きなのかもしれない。

「あっ、このお店なんてどうでしょうか」

 村雨さんが指さす先には、淡いピンクに統一された内装のアパレル店があった。

マネキンを見てみると、どれも膝上丈のスカートスタイルで、リボンやフリルといった女の子らしいモチーフが取り入れられた服ばかりが飾られている。

それらの洋服には、通りすがりに思わず目で追ってしまうような、俺の心を惹き付ける何かがあるような気がした。

「ここの店の服、すごくかわいいですね」

素直な気持ちが口に出た。

「本当ですか! 佐藤様がそう仰るのなら…… 」

村雨さんはそう言うと、迷わず店内に入っていった。

「あっ、待って下さい…… 」

俺は女性向けの服屋ということもあり、気後れしながら村雨さんの後を追った。

この店の客層はやはり女性ばかりで、男性でここにいるのは俺だけだった。かなり居心地が悪い。 

そんな中、村雨さんは1つのマネキンを指差しながら店員に「この服を試着させて下さい」と頼み、店員に連れられて試着室の中へと入っていった。

俺は1人になってしまったので、若干の心細さを感じながら試着室の前で待っていた。

試着室の入り口は薄紫のカーテンで仕切られており、その中で村雨さんはマネキンが着ていた服に着替えているらしい。

時々聞こえてくる衣擦れの音にドギマギしながら、スマホをいじって待っていると、

 「おまたせいたしました」

村雨さんの着替えが終わったらしい。ジャバラになったカーテンを引いて、彼女が現れた。

新しい洋服に身を包んだ村雨さんの姿を、俺はついまじまじと眺めてしまった。

胸元に小さいリボンのあしらわれた白いタートルネックセーターなのだが、肩の部分が開いており、村雨さんの華奢な白い肩がそこから覗いている。スカートは灰色のグレンチェック柄で、膝の上でふんわりと広がったシルエットになっていた。

「どう……ですか? 似合うでしょうか? 」

村雨さんは頬を赤らめながら、頼りなさそうにこちらを見つめる。

「すごく…… か、可愛いです…… 

それは本心からの言葉だった。先程まで着ていた、落ち着いた雰囲気の大人びた服もそれはそれで良かったが、今着ている少女趣味な服も、小柄であどけない印象の彼女にはとても良く似合っている。

それに、俺はどうやら女の子のこういう装いが好きらしい。

恥ずかしそうにスカートの裾を摘む村雨さんを見ていると、胸の中で何か温かいものが湧き上がるような心持ちになっていた。自然と頬が緩んでしまっているのが自分でもよく分かる。

「本当ですか……? 」

村雨さんはもの言いたげな目で俺の反応を疑わしそうに見ている。

「勿論です! 俺、嘘つくのは得意じゃないんで」

「そうですか…… 」

村雨さんは相変わらずもじもじとしていたが、俺の言葉を聞いて少し安心したらしく、柔らかな笑みを浮かべながら、「佐藤様にそう言って頂けると嬉しいです! 」と元気よく言った。 

そんな彼女の姿を見ながら、こういうのも悪くはないな、と思うのだった。

(つづく)