嘘八百日記

このブログ記事は全てフィクションです。

異常独身男性の憂鬱③

今日は出社日だった。仕事を終え、会社を出る頃には辺りはすっかり暗くなり、街灯が寒々しく道を照らしていた。

身を切るような寒さに耐え、何とか帰宅した。冬の日の夜に外を出歩くのは、寒がりな俺にとっては命をすり減らしているようなものだ。

かつて住んでいたワンルームマンションから引っ越しをし、今は2LDKの築年数がそんなに経っていない、綺麗な物件に住んでいる。ここの家賃は俺の月収の半分以上で、俺の収入だけでは絶対に暮らすことはできないだろう。

それでも、ここに暮らせているのは異常独身男性監視委員会とかいう団体から補助金が出ているからだ。光熱費なんかも委員会の資金から出ているようで、経済的にかなり余裕が出来た。まさに委員会様様である。

「おかえりなさい」

廊下の奥から声が聞こえた。暖かな光がドアの隙間から暗い廊下に差し込んでいる。

「……ただいま」

居間に続くドアを開いた。温かい空気と共に醤油の焦げた良い香りが流れてきた。

「お夕飯、作っておきました。 冷めないうちに食べて下さい」

村雨さんはキッチンで洗い物をしていた。スーツのジャケットを腕まくりして、フライパンを洗っている姿は台所には似つかわしくない。

彼女は手元から目線をあげ、穏やかな笑みを湛えて俺を見つめる。

「あっ、ありがとうございます」

彼女と目が合った。俺はどんな顔をすればいいかが分からないのと、自分好みの可愛らしい女性に見つめられる気恥ずかしさから目を逸らした。

洗面所で手洗いうがいを済ませて居間に戻ると、村雨さんは席に座って俺を待っていた。何か薬を飲んだのか、そばには飲みかけの水と薬の包装と思わしき銀色のシートが置いてあった。

「お仕事お疲れ様でした」

村雨さんは俺を労うように、微笑みながら小さくお辞儀をした。

村雨さんと、監視という名の同棲生活を始めて数日が経った。俺は一人暮らしをして十年は経っていたから、家に自分以外の誰かがいるということにはまだ慣れてない。だが、これはこれで悪くない。仕事から帰宅してきて、部屋に明かりがついているのは何だか安心する。

自分の帰りを待ってくれる誰かがいることに、心が浮き立っているのが自分でもよくわかる。ましてや、その誰かがこんなに愛らしい女性なのだから、こうなってしまうのも当然なのだろう。こんな気持ちになることは今までで一回もなかった。

テーブルの方に目をやると、料理が盛られたいくつかの食器が並んでいた。その中で、中央に置かれている、やや大きめの皿に目がいった。それは豚肉の生姜焼きだった。

豚の生姜焼きは俺の大好物だ。八年の独居生活では自炊する習慣が身につかなかったのだが、豚の生姜焼きは好きなのでたまに作って食べていた。村雨さんには生姜焼きが好きなことなんて伝えてないし、今夜の献立に出てきたのは偶然なのだろう。

「生姜焼きは佐藤様の好きな食べ物だと把握済みです。これまでずっと監視してきましたので」

そんな俺の心の声を聞いたかのように、村雨さんはゆったりと言った。

俺の生活が異常独身男性監視委員会によって監視されていたというのは、村雨さんが初めて俺の家に来た時に言ってはいたが、まさかそんなことまで把握されているとは。俺は若干の薄ら寒さを覚えた。

「さぁ、佐藤様もおかけになって下さい」

村雨さんに座るよう促されたので、俺は彼女の正面の席に座った。

豚の生姜焼きの他にも、海藻サラダに味噌汁、小鉢に入った大根とイカの煮つけと、まさに一汁三菜といった健康的な献立であった。

「いただきます…… 」

生姜焼きに箸を伸ばし、一口食べる。口にした瞬間、醤油の香ばしい香りと豚肉の旨味が口内を満たした。咀嚼する。肉はとても柔らかく、舌の上でほろほろと崩れる。

俺が作る生姜焼きは、使う肉によってはかなり固い仕上がりになってしまうことが度々あったのだが、村雨さんの作った生姜焼きにはそのようなことは一切なかった。

脂身の程よいまろやかさが調味料の甘じょっぱさを包み込む中、生姜の独特な香りと辛味が精彩を放つ。

「美味しい…… 」

気がつけば、言葉を漏らしていた。

「ありがとうございます。 佐藤様にそう言ってもらえてうれしいです」

村雨さんは本当に嬉しそうににっこりと微笑んだ。その笑顔はとても自然で、見ているこっちまで嬉しくなってしまう。

 「佐藤様、どうかなされましたか? 」

村雨さんは不思議そうにこちらを眺めている。意図せず彼女の微笑みに見とれてしまっていたようだ。

「いえ、なんでもないです…… 」

俺は焦って、不自然に視線を逸らした。不審がられてしまっただろうか。

村雨さんは相変わらずの柔らかい笑みを浮かべている。他の料理を手で示しながら、「生姜焼き以外の料理も自信作なので、ぜひ食べていただきたいです」と促した。

サラダや味噌汁、煮つけも傑作であった。素材の良さを生かした料理の数々に舌鼓を打つ。思わず表情が緩んでしまう。そんな俺を見て、村雨さんは楽しげにしていた。

誰かの作ってくれる料理を食べたのはいつぶりだろうか。実家には久しく帰っていなかったし、手作りの料理がこんなに美味しく、心が温まるものだったということを俺は今まですっかり忘れていた。

「その、こんなに美味しい料理を作ってくれてありがとうございます」

俺はかつおだしの効いた味噌汁を飲み干してから、村雨さんに頭を下げた。

「いえいえ、佐藤様が美味しそうに食べて下さっているので私もうれしいです」

村雨さんは既に食べ終えたようで、食器をキッチンまで戻していた。俺の分に比べてかなり少なかったから、すぐに食べ終えることが出来たのだろう。

その後ろ姿を見て、ふと一つの疑問を抱いた。

それは、家にいるのに最初会った時と同じような、黒いジャケットにタイトスカートといった出で立ちで、かしこまった姿であるということだ。

「そういえば、ずっとスーツ着てるんですね。 私服とかは着ないんですか? 」

「実は、あまり私服を持っていなくて…… 」

村雨さんはちょっと困ったような笑みを浮かべながら、俺の質問に答えた。

「そうだ、今度の日曜日は空いてますでしょうか」

「えぇ。 でもどうして急に? 」

俺はなぜ村雨さんがそんなことを聞いてくるのか、皆目見当がつかなかった。

村雨さんはというと、小さな顔に満面の笑みを浮かべている。何か名案を思い付いたといった感じだ。

「佐藤様と一緒にお出かけして、洋服を見に行きたいなと思ったんです!」

「……お、おぉ」

それはデート、ということになるんだろうか。 小柄で童顔な、俺の好みど真ん中な女性と二人で出かけるなんて、俺にそんなことができるんだろうか。絶対に緊張して何かやらかしてしまいそうだ。

20年以上生きてきたが、これまで女性と二人きりで出かけるという経験は一度もしていない。そもそも、女性と親密な関係になったことがない。そう考えると、俺の人生はなんて空虚なのだろうか。

10代の頃にそういう経験をしてこなかった俺は、心のどこかであの日の青春を取り戻したいと思い続けてきたのだと思う。俺の心は、灰色の青春時代に置き去りにされているのだ。

だが、取り戻したいと思っていても、それが出来るほどの行動力がない自覚がある。いや、行動を起こすうえで必要な、確固たる自信がないのかもしれない。

「もしかして、私と出かけることに抵抗があるのでしょうか? 」

「い、いえ、別に…… 」

嘘だった。自分が上手くデートができるとは思えなかったし、何かしら失敗してしまうのは目に見えている。出来れば避けたい。

だが、村雨さんの方を伺うと、心なしか少し悲しげな表情をしている。俺の煮え切らない態度のせいで彼女が嫌な気持ちになってしまうのは申し訳ないし、何故だかそれが嫌だと思えた。

「……服、見に行きましょう」

村雨さんの笑顔が曇ってしまうのに居ても立っても居られず、熟考することなく了承した。

「本当ですか! 良かったです! 」

悲しげな様子から一変して、蕾が春の陽気にほころぶような、華やかな笑顔になる。

それを見て俺は、さっきまで抱いていた不安や劣等感を抜きにして、心の底からデートの誘いに乗る選択をしたことが正しかったのだと思うことが出来た。

「今度の日曜日が楽しみですね! 」

村雨さんはニコニコとしながら食器を流しで洗っている。ご機嫌な様子で何かを口ずさんでいるのが居間まで聞こえる。

そのメロディーはどこかで聞き覚えがあった。確か、ずいぶん昔に放送されていたロボットアニメの主題歌だった気がする。

「サーイレントヴォーイス♪ 優しい目をした誰かに、会~い~た~い~♪ 」

村雨さんの、どこか幼さのある可愛らしい声が響いてきている。その軽やかな旋律を聞きながら、俺は少し冷めてしまった生姜焼きと白米を口いっぱいに頬張った。

 (つづく)