嘘八百日記

このブログ記事は全てフィクションです。

閉鎖病棟入院記⑫

8月21日(日)

前回の更新からかなり時間が経過してしまった。

その間、色んな事件や出来事、治療によって入院当初の頃からかなり変化した人や、退院する人に入院する人と、人の移り変わりも沢山あった。

今回は閉鎖病棟入院記⑨で紹介した太田さん

の驚くべき変化について書こう。

太田さんは極度の潔癖症で、自分ルールを他者に押し付けては他の患者に迷惑をかけていた30代の男性患者である。

太田さんは約3週間前、流行りのウイルスに感染し、2週間ほど隔離室に入れられていた。

太田さんが防護服を着た三人の看護師に、隔離室に移送されていくのを、20代の女性患者の植田さんは見たそうだ。

彼女も僕と同じく、大声で自分の要求を通そうとし、他者を傷付ける太田さんが苦手であった。

「隔離室って、狭い部屋にトイレとベッドしかなくて、手を洗える洗面台もないから用を足してもウエットティッシュで拭くしかないみたいだよ」

とこっそり僕に教えてくれた。

太田さんはかなりの潔癖症で、いつもお気に入りの洗面台で手を洗うのをよくみかけていた。

そんな太田さんが、手を洗えない環境で2週間も隔離されたら…… 本当の気狂いになってしまうのではないか、と嫌いな相手ながら少し心配になった。

「太田さんは大丈夫なんだろうか」

と僕が呟くと、

「ケンちゃんは誰が触ったかもわからないものを触るのを嫌がってたし、自分以外には誰もいない隔離室にいた方が案外幸せかもしれないよ」

と植田さんは話す。ケンちゃん、というのは植田さんが太田さんには内緒でつけたあだ名である。

植田さんは、嫌いな人や何を言っても仕様がない人を同じ人間だとは思わず、その人を野生動物か何かだと思い、距離を置くようにしているのだという。

そうすることで、何故この人は自分の言っていることを聞いてくれないのだろうか、何故この人とは分かり合えないのだろうか、といちいち悩まずに済むからだそうだ。話しても分かり合えないのは、相手が野生動物だからだ。人間の言葉が通じるわけがない。

そう思うことで苦手な人を受け流す、それが彼女なりの処世術なのかもしれない。

「津山くんも、そこら辺にいる野生化したアライグマやハクビシンと楽しく会話をしようだなんて思わないでしょ?」

と笑った。さらに、

「太田さんの下の名前は謙二。それで、いっつも手を洗っているからアライグマみたい、ということで、太田さんのことはアライグマのケンちゃんって呼んでるよ」

と植田さんは続けた。

そんな太田さん……いや、ケンちゃんは2週間後、どうなったかというと、まるで別人のように変わっていた。

まず、大きな声で看護師に文句を言わなくなった。隔離が解除になってから、僕は太田さんの声を一度も聞いたことがない。

相変わらず潔癖症はあるのか、自分の部屋から出るのを極力避けているが、あんなに嫌がっていた入浴も素直に入るようになっていた。

以前は公衆電話で親に「ここから早く退院させてくれ」と全身全霊で叫ぶように訴えていたが、太田さんが電話してるのをこのところ見ていないし、看護師やソーシャルワーカーを捕まえては自分の要求ばかりを伝えるということもしなくなった。

植田さんも僕も、「あの太田さんが」とかなり驚いている。これでは牙の抜かれた猛獣、いや、牙の抜かれたアライグマといったところか。