閉鎖病棟入院記⑧
7月7日(木)
「今日、小森さんが退院するそうだよ」
朝食の済んだ後にそう教えてくれたのは、入院当初からよく話をしている植田さんという女性患者だった。 お互い20代前半と歳が近く、学部は違うが同じ大学出身であるので、植田さんにはある種の親しみやすさを感じている。
小森さんは女子中学生で、入院歴もかなり長いと聞いたことがある。 夢でも見ているかのようなぼんやりとした目をしながらロの字型になっている病棟内の廊下をグルグル歩き、1人で笑ったり、歌ったり、喋ったりしているのをよく見かけた。 髪型には無頓着なのか、ショートヘアのくせっ毛にひどい寝癖が残った状態でも平気そうにしている。
僕は小森さんに話しかけたことは無いが、植田さんは気さくで話好きだからか、老若男女問わず誰とでも楽しく会話出来るので、少し取っ付きにくい雰囲気を持つ小森さんとも仲良くなったのだろう。
「今日の1時に退院するみたい。 私は見送りしようと思うけど、津山くんもどう? 」
植田さんは屈託のない笑顔を見せる。
「そうだな…… じゃあ僕も参加しようかな」
小森さんとはあまり面識はないが、日頃仲良くしてもらっている植田さんの誘いは断りにくかった。
「うん! ありがとう! じゃあ私、他の方にも伝えてくる! 」
植田さんはそういうと、軽やかに去っていった。
シーツ交換が終わった10時半頃、僕はトイレに行こうと思い自室を出たところで、一人で楽しそうに笑う小森さんとばったり会った。
僕はせっかくなので小森さんに話しかけようと思い、勇気を出して話しかけてみた。
「小森さん、今日退院なんだってね」
「……はい、そうなんです」
鈴を転がすような、透き通った可愛らしい声で小森さんは返事をした。
小森さんと普通に会話が出来ることや、声がとても綺麗なことに驚き、しばらく言葉が出なかったが、すぐに気を取り直し会話を続けた。
「退院おめでとう。 退院したら何かやりたいことはあるの? 」
「そうですね、今日の七夕祭りに行きたいです」
そういえば今日は7月7日、七夕の日だった。確か、市内では毎年七夕祭りが開催されるのだ。かなり大規模な催しで、全国的にも有名らしい。 小森さんはそれに行きたいのだろう。
「そっか…… それじゃあ楽しんできてね」
「はい、ありがとうございます」
小森さんは小さくお辞儀をすると、また歩き出した。
そして午後1時。 閉鎖病棟の外へと繋がる扉近くに7人の患者達が集まった。
扉の横にはナースステーションがあり、その前は談話コーナーもある広々としたスペースになっている。 そこで患者達は小森さんはまだだろうか、そろそろだろうかと身を寄せあって話していた。
「小森さん、遅いね」
僕は植田さんに話しかけてみた。
「確かにさっきは、1時には荷物をまとめて出ていくって言ってたんだけどな…… 」
植田さんは困った顔で腕を組んでいた。
そこへ、ナースステーションから1人の看護師が出てきた。 患者がそんなに集まって一体何事かと心配した様子で、「どうされましたか? 」と声をかけてきた。
「小森さんが今日の1時に退院するらしいので、皆で見送りに来ました」
植田さんはハキハキと説明した。
しかし、看護師は訝しげな様子で首を傾げた。
「小森さんが退院するって、本人がいってたんですか?」
「はい、そうですけど…… 」
「小森さんは確か、今日そういう予定は無いはずですよ。 一応確認してきますね」
看護師はそう言って、駆け足でナースステーションに戻って行った。
数分後。 その看護師はすぐに戻ってきた。
「小森さんの主治医にも確認しましたが、やはり今日退院する予定は無いですね」
集まった一同は顔を見合せ、その後植田さんの方を見た。
植田さんは、「本人が退院するって確かに言ってたんですよ…… 」と主張するも、しりすぼみになってしまっていて自信なさげであった。
これは一体どういうことなんだ、と皆が首を傾げたその時。 小森さんが向こうから歩いてきたのだ。
植田さんは小森さんに走りより、「今日退院って言ってたよね? 」と余裕の無い様子で詰め寄る。
小森さんは相変わらずのぼんやりとした表情で、「そうですよ」と即答した。
「でも、看護師さんは小森さんは今日退院しないって言ってたよ」
本人がこれではますます分からなくなった。 皆の間に沈黙が訪れる。
その沈黙を破ったのは、小森さんだった。
「テレパシーです」
「へ?」
植田さんは素っ頓狂な声を出す。
「テレパシーなんです。 自分以外の声で、頭の中に聞こえるんです」
小森さんは、それがさも当然かのように話を続けた。
「昨日の夜、明日は退院できるよってテレパシーがきました。 だから今日退院するんです 」
小森さんは嬉しそうにニコニコとしていた。 それとは対照的に、見送りに来た僕達は渋い顔をしていた。
「そ、そっか! テレパシーだったんだね! うんうん 」
植田さんは無理やり納得したように、苦笑いして何度も頷いていた。
恐らく、小森さんの言う”テレパシー”は統合失調症などによくある幻聴なのだろう。
しかし、無邪気に七夕祭りを心待ちにしている小森さんに対し、面と向かってそれは幻聴であり、君の妄想なのだと説明することは、そこにいる誰にも出来なかった。