嘘八百日記

このブログ記事は全てフィクションです。

閉鎖病棟入院記⑨

7月9日(土)

309号室の太田さんは、僕の苦手な人だった。 30代の男性患者で、伸び放題でボサボサな髭に、何日も風呂に入っていないような嫌なテカリのある頭がなんとも清潔感に欠ける。実際、閉鎖病棟に入院してから入浴を拒否しているらしい。 

そんな太田さんだが、実は極度の潔癖症である。 

トイレのドアや洗面所の蛇口など、誰がどんな手で触ったか分からない物を触るのが苦痛らしく、触ったあとは念入りに手を洗っている。

手を洗うのに使う洗面台でも、4つある中で使える所と使えない所があるらしい。

病棟内のロの字型の廊下を、看護室や談話コーナーのある方から見た時の右辺と左辺に2個ずつ洗面台があるのだが、右辺の洗面台2つは、柴田さんがトイレットペーパーを耳に詰める際に出た屑が落ちていたので無理、左辺側にある左の洗面台は、誰かが歯ブラシを蛇口にくっ付けて洗っているのをみたので無理、と彼にとって共用の洗面所は”使ってはいけない”洗面台ばかりだそうだ。 

唯一使ってもよいと認めた洗面台なのか、太田さんはいつも、左辺側、談話コーナーの傍にある右の洗面台で手を洗っているのをよく見かける。ひょろりと背が高いので、洗面所で手を洗っているだけでも結構目立つのだ。

ただ手を頻繁に洗うだけなら良かったのだが、彼の悪癖はそれだけではなかった。

太田さんは、周りの患者に対して攻撃的な態度を取る。 

彼の病室である309号室に間違えて入ってしまったお婆さんがいたのだが、そのお婆さんに対して、「ふざけるな! 汚い手で扉を触るんじゃない! 」と激怒したのだ。

お婆さんには認知症の傾向があったので、部屋を間違えるのは仕方のないことだ。 お婆さんは彼にしっかりと謝った。それなのに彼は怒り続け、看護師に大声で抗議し始めたのだ。

「あの人、前も注意したのにまた入って来たんですよ。 それって、もう言っても意味がないってことですよね? ならもう、隔離にでも入れといた方がいいんじゃないですか? こっちも、あの人が触ったせいでドアをウェットティッシュで拭かないといけないんです。 あの人のせいで僕のウェットティッシュが消費されるってのもおかしな話でしょ? 何とかならないんですか? 」

こんな具合に、早口で捲し立てるのだ。 聞いている看護師も困った様子で、「そうですね、でもあの方も悪気があったわけではないんですよ」と優しい口調で宥めるが、彼は中々落ち着きを取り戻さなかった。

他にも、お気に入りの洗面台で手を洗っている太田さんに、廊下を徘徊していた女子中学生の小森さんが少し近付いてしまった時があった。

近づくといっても、20センチくらいの距離はあったと思う。 それでも太田さんは気に食わなかったらしく、歩いて行く小森さんの背中に「近い!」と罵声を浴びせた。

彼は小森さんを敵対視しており、彼女がまるで汚い物であるかのように見る。 小森さんがちょっと風変わりであることから、彼女が汚い物を触ってもちゃんと洗っていないだろうと決めつけているのだ。

それだけでは怒りが収まらなかったようで、看護室まで行って大声で不平不満をぶちまけていた。

僕は潔癖症という病気のことを詳しく知らないのだが、汚い物を触るのは酷く嫌がるが、自分の体が汚いことには何とも思わないのは傍から見ていると辻褄が合わないようにも思えてしまう。彼の中では彼なりの論理があり、これでも整合性がとれているのだろうか。

 

今日の午前中に、僕は談話コーナーで新聞を読んでいた。 どの面を見ても、元首相が銃殺された事件の関連記事ばかりで食傷気味になっていた。

開いた新聞を閉じ、1番後ろにある干支占いをぼうっと眺めていると、目の前にある電話ボックスからガチャガチャと凄い物音がした。

びっくりして見てみると、太田さんが公衆電話の乗ったスタンドの下にある、少しぐらついている金属の土台を足で弄っているのだ。 

受話器を片手に持ったままだったので、誰かに電話を掛けている最中らしい。 

中々かからないことに苛立っているのか、騒々しいガチャガチャ音は暫く続き、僕は新聞を読むどころではなくなってしまった。 

それから数分後。 やっと電話が繋がったのか、太田さんの足の動きは止まった。

電話の相手は誰だか分からないが、太田さんはいつもよりも早口に電話相手に自分の要求を伝えていた。

「だからウェットティッシュ。 アルコールのやつ。 ちゃんと送って。 ……だから、それを送らないってことは俺に死ねっていってるのと同じなの! これ公衆電話で、時間もないから何度も言わせないで。 なんでわかんないかな〜」

電話ボックスの中にいるのに、太田さんの声はよく通っていた。 彼はしばらくウエットティッシュの重要性を訴えかけていたが、そのうちに自分の現状がいかに酷いのかを説明し始めた。

「ここには沢山人がいて、誰が触ってるのか分からないような場所ばかりで、いつも手を洗わないといけないんだよ。 話の通じない看護師や患者ばっかだし。この前だって誰が使ったかも分からない風呂場に入るのは嫌だって看護師にいっても、無理やり風呂に入らせようとしてきたし、俺は人間としての尊厳を奪われてるの! 」

彼の訴えはどんどんヒートアップしていくばかりだ。語気はさらに強く、声はさらに大きくなり、病棟内全体に響いているのではないかと心配になった。

「だから、ここから出たいというのはソーシャルワーカーとか医者にも何度も言ってるの。あとはあんたが退院させたいって言わない限りは俺はここから出られないの。早く退院の手続きをやって!! 俺に死ねっていいたいの? ここに居続けたら俺多分死ぬよ? はやく!!はやく!! はやく!!!」

太田さんは受話器にかじりつき、それはもう必死の形相で相手方に自分の要求を通そうとしている。 その様子を見ていて僕は、太田さんが滑稽にも、哀れにも思えてきた。

309号室の太田さんは、僕の苦手な人”だった”。

こんなにも必死になって、簡単に退院出来るわけもない閉鎖病棟から出ようとしている姿を見ていると、水面に落ちてもがく羽虫を上から眺めているような、冷めた憐れみを抱くのである。

誰かを憐れむ時、人はその対象を無意識に見下している。

今の僕には、太田さんは自分と同じ人間ではなく、もっと可哀想で、もっとどうしようもない生き物とも思えるのだった。

もはや、太田さんは苦手な”人”ですらなかった。