嘘八百日記

このブログ記事は全てフィクションです。

閉鎖病棟入院記⑤

7月2日(土)

今日の朝。 50代男性患者の柴田さんはまた、看護師に叱られていた。

彼は食事中に汁椀の蓋をベロベロ舐め回したり、お茶をコップから食べ終わった茶碗に移し、汚い音を立てて飲んだりして毎度のように看護師に怒られているので、患者の中でもかなり目立っていた。

今朝はどうやら女子トイレに入り、置いてあるトイレットペーパーを全て盗んでいったようだ。 

これは初犯ではなく、複数回行っているということは、叱っている看護師の「何回も言ってるのに、なんで言うこと聞いてくれないの」という言葉から分かった。

柴田さんは看護師の説教の合間合間に頷きながら「はい」と返事し、「ごめんなさい」と申し訳なさそうに謝罪するのだが、それでも同じことを繰り返すので、恐らく反省はしていないのだろう。

何故女子トイレに入るという危険まで冒してトイレットペーパーを欲するのか。 僕は個人的に興味を持ったので、柴田さんに話しかけることにした。

共用の洗面所で口を濯ぐ柴田さんの隣で、僕も歯磨きをした。 僕が歯を磨いている途中、柴田さんは鼻がくっついてしまいそうな程に鏡を間近に見つめ、息まじりの掠れた声でずっとこのような事を言っていた。

「こわいよ…… フゥー…… こわいよ……」

「マジでヤバい…… フゥー…… ヤバいよ…… 」

独り言の合間に毎度息継ぎが入るのが、何だか印象的だった。

僕は歯磨きを終え、柴田さんに話しかけた。

「おはようございます」

「あ、おはようございます」

予想に反して、柴田さんは普通に挨拶を返してくれた。 

「さっきから、ヤバいって言ってますけど、何がヤバいんですか?」

「女子トイレに入ったら看護師に怒られたんです。 本当にすみません! 」

柴田さんは何故か僕に謝ってきた。 銀縁メガネの奥にある、斜視気味の目をキョロキョロさせ、いかにも不安そうな様子だ。

「いや、僕に謝られても…… それで、女子トイレで何してたんですか」

「トイレットペーパーを…… 取りました。 本当にもう持ってなくて」

恐らく、自分の手持ちのトイレットペーパーが無い、と言いたいのだろう。

「そんなにトイレットペーパーを何に使うんです?」

「鼻から、鼻から出るので拭きます」

「はぁ、鼻ですか。 そんなに出るんですか。 ティッシュでは拭かないんですか」

ティッシュより…… トイレットペーパーの方がいいですよね」

相変わらず、目をキョロキョロと動かしながら柴田さんは話した。

どうやら、柴田さんには柴田さんなりのこだわりがあるようだ。僕はあまり納得がいかなかったが、とりあえず話題を変えた。

「そういえばよく、耳も拭いてますよね」

この洗面所では、耳にトイレットペーパーを詰める柴田さんの姿をよく目にしていた。 耳に詰める時に指で縒るからか、柴田さんの使った後の洗面所はトイレットペーパーの屑が散らばっていた。 勿論、それも看護師に叱られていた。

「あ、耳も拭きます。 よく見てますね」 

「柴田さんがよくやってるのでね…… でも、女子トイレに入って盗むのは良くない思いますよ。 看護師さんたちも困ってましたし」

「ごめんなさい! 本当にすみません! 許してください! ごめんなさい! 」

柴田さんは突然大声になり、何度も何度もお辞儀しながら謝った。 本当に、何度も何度もだ。 何だか、50代の男性が謝っているというより、悪戯をした小学生の子供が、親に対して許しを乞う様子を見ているように思えてくる。      

「いや、そんなに謝っても…… 」

僕は柴田さんを止めようとしたが、彼はずっと謝り続けていた。

「許してください! 本当に申し訳ないです!ごめんなさい! 」

「だからぼくに謝ってもしょうがないですって…… 」

「すみません! 許してください! 本当にごめんなさい! 」

喉が充血してしまうのではないかと心配になるぐらい、柴田さんは半ば叫ぶように謝罪を繰り返す。 

壊れた玩具のように何度も何度も謝ってくる柴田さんの様子が少し怖くなり、僕は「それじゃあ…… 」といって洗面所を後にした。 

僕が洗面所を離れた後も、柴田さんの謝罪の声はしばらく聞こえていた。

 

それから自室に戻り、柴田さんのことを少し考えてみた。どうして柴田さんは何度も僕に謝ってきたのかを。

色々考えたが、柴田さんがあんなに謝ってくるのは、自分の罪悪感を自分一人では抱えきれないからではないのだろうか、と推測した。 

罪悪感を抱いている状態というのは気分があまり良くない。だから早くその状態から抜け出したいと考え、とりあえず謝罪をする。 

そのような特徴が当てはまる例として、虐待親の行動パターンが挙げられる。

ある精神科医の話だが、ストレスが高まったりすると、暴力なり言葉なりで子供を痛めつけるが、それが終われば今度は人が変わったかのように謝り倒し、こんなに酷いことをしてしまってごめんなさい、と泣きながら子供に許しを乞う親が、虐待する親の中でも一定数いるのだそうだ。

何故そのようなことをするかというと、子を痛めつけてしまったという罪悪感を、自分1人では抱えきれないかららしい。 とりあえず謝り、相手に許してもらえさえれば、抱えきれない罪悪感が解消され、親は気持ちが楽になる。 しかし、反省している訳では無いので、また同じことを繰り返す。

柴田さんも然り、虐待親も然り、自らの行いに対して反省しているから謝罪するのではなく、自分を他者に許してもらい、早く楽になりたいから謝罪するのだ。 

何というか、ただただ幼稚の一言に尽きる。まだ精神が未成熟な子供がやるのなら許せるが、それを50代にもなってやるのはあまりに稚拙甚だしい。 

もしかすると、これは柴田さんの抱える病気のせいなのかもしれないが、だからといって人に迷惑をかけ続けるのは良いとは言えない。実際、柴田さんが女子トイレに侵入してトイレットペーパーを盗むせいで、女性患者や看護師に多大な迷惑がかかっている。

こういう時にこそ、「ごめんで済んだら警察はいらないんだよ」という言葉がピッタリに思えた。