異常独身男性の憂鬱②
「こんにちは。私、異常独身男性監視委員会の村雨と申します。本日はどうぞよろしくお願いしますね」
村雨と名乗るその女性は柔和な笑みを浮かべている。その言葉さえ聞かなければ、素直に可愛らしいなと思えるのだが、今はそれどころではなかった。
「異常独身男性監視委員会? 何なんですかそれ? というか何で俺の家に…… 」
頭の中に浮かぶ疑問がそのまま口に出てしまった。そんな名前の団体なんてこれまで聞いたこともないし、何かのイタズラだろうか。ひょっとしたら、突然のことに面食らった俺をどこかで撮影してて、面白がってるんじゃないだろうか。
「ご存知ないのも無理はないと思います。 我々の存在は国民の皆様からは隠されておりますので」
相変わらずの明るい笑顔で、村雨さんは話を続けた。
「我々の組織についてもご説明いたしますので、お宅に上がってもよろしいでしょうか? 」
「は、はい…… 」
何が何だか分からないが、小柄で愛らしい村雨さんに悪い印象は抱かなかった。むしろ好印象だったので、彼女を家に上げるのはそこまで抵抗はなかった。
俺の部屋はワンルームで、かなり狭い。デスクトップパソコンを置いた作業机の席の他に、まともに座れる場所がなかったため、村雨さんには椅子に座ってもらい、俺はベッドに腰掛けて話を聞くことになった。
「まずは我々の委員会についてご説明いたしますね」
村雨さんは俺が入れた緑茶に口を付けたのだが、熱かったらしく、舌をちょっと出してしかめっ面をした。猫舌なのだろうか。その姿はとても可愛らしくて、思わずにやけてしまいそうになった。
「すいません、熱いものが苦手でして…… 」
村雨さんは俺の方を見て申し訳なさそうに謝った。
「あ、いえいえ…… 」
彼女と目が合った。俺は気恥ずかしくなったので自分の手元に視線を向けた。
村雨さんは冷ますためにしばらく緑茶に息を吹きかけていたが、飲むことをあきらめたのか、机に湯呑を置いて話し始めた。
「私たちは異常独身男性監視委員会という組織です。 統計上、独身男性の犯罪率は全体の80%を占めております。そのような独身男性の起こす犯罪を抑制するために、我々は条件に適合した独身男性を内密に監視してきました」
「えっ…… 」
村雨さんの言っていることには、正直理解が追い付かなかった。犯罪の抑制? 監視? そんなことがこの日本で行われているということに全く持って信じることが出来ない。
「信じることが出来ないのは当たり前です。 ですが、現に我々はあなたをこれまで監視してきました。先ほど、あなたはこの部屋に設置されていた小型カメラを見つけておりましたよね? 」
「は、はい。でもなんで…… 」
「この部屋で撮られた映像は全て本部の監視室にリアルタイムで送られているんですよ。 あなたがカメラを見つけたのも委員会で既に把握済みです」
「そんな…… 」
あまりのことに俺は言葉を失った。俺の生活が知らない間に誰かに見られていたなんて。最近感じることの多かった、あの"視線"は気のせいではなかったということか。
「そんなことをして、いいと思っているんですか? だってそんなん、人権侵害でしょ…… 」
「我々の委員会は超法規的組織です。 この国での法令や憲法を超えた措置を行うことを国から認められております」
「俺は、まだ何の犯罪も起こしたことがないのに」
俺はボソッとつぶやいた。村雨さんはそれを聞き逃さず、追い打ちをかけるようにスラスラと答えていった。
「将来的にあなたのような、恋愛経験も少なく、既婚者に比べて失う物が少ないとされる独身男性は、犯罪者になる確率が高いと政府から判断されているのです。 継続的な監視をし、そのような独身男性による犯罪を未然に防ぐことで、日本で起こる犯罪件数が大幅に減少すると考えられています」
話している内容はにわかに信じられないような内容だというのに、村雨さんは初めて顔を合わせた時のような、もの柔らかな笑顔を崩さないままだ。男を魅了する笑顔に変わりはないのだが、この場においてはそれが少し不気味であった。
それに、自分が犯罪者予備軍として誰かから監視しなければならない対象になっているというのも、あまり気分の良い事ではない。ここは怒っていいところだと思うのだが、村雨さんの話はあまりにも突飛すぎて怒るに怒れない。
「佐藤様には監視目的のカメラが見つかってしまったため、もう一度カメラを設置することは出来ないと委員会は判断しました」
「つまり、俺への監視はもうしないってことですか? 」
「いえ、これからも佐藤様への監視は続けます」
村雨さんは首を軽く振って、俺の言葉を否定した。
「ん? でもカメラは設置しないって…… 」
「はい。 カメラでなく、監視官である私の目で直接、佐藤様を監視させていただきます」
「えっ…… どういうことですか」
俺は村雨さんが何を言わんとしてるのかがさっぱり分からなかった。
「これから、私は佐藤様と一緒に暮らすことになります」
村雨さんの目は三日月型に細められ、まっすぐに俺を見つめる。それは見る者の心をつかんで離さない、100点満点の笑顔だった。
こんなわけのわからない状況でも、到底信じられない話をされても、それでも、気づけば俺は村雨さんのその笑顔に胸を高鳴らせていた。胸の中に熱が生まれ、それが全身にじんわりと広がっていくような高揚感を感じている。
「私と暮らすことになっても、もちろんいいですよね?」
恐らく、村雨さんはこの表情で要求をすれば、男は全て受け入れるということを十分理解しているんだろう。
そうだとわかっていても、俺は既に村雨さんに魅了されていた。もう手遅れだ。彼女を拒絶する、なんてことはもうできない。
「……分かりました」
俺は自然と、了承を意味する言葉を口に出していた。
「佐藤様ならそう言って下さると思っていました」
村雨さんは微笑んで俺を見ている。思い通りに他人を動かせてさぞ満足していることだろう。
彼女は部屋を見渡して、「でも、この部屋だと二人で住むには狭いですよね」とつぶやいた。
俺の部屋はワンルームで、お世辞にも広いとは言えない。確かに、ここで二人暮らしをするのには難があるだろう。
「委員会から資金が出ますので、もう少し広い物件に引っ越しましょう」
「えっ、でも、ここにはもうずっとここに住んでいるんですよ。 今更引っ越すなんて…… 」
ここは新社会人になってからこれまでずっと住んでいた部屋だ。8年近くこの部屋で過ごしてきたため、愛着はやはりある。
「ですが、現実的に考えてここに成人した男女が同棲するのは厳しいでしょう」
「ど、同棲? 」
同棲という響きに思わずドキッとしてしまった。さっきは熱に浮かされて軽々しく頷いてしまったが、冷静に考えると、ひとつ屋根の下でこんな可愛いらしい女性と暮らすなんてとんでもない事だ。俺にそんなことできるんだろうか。今更ながら、村雨さんの提案を吞んでしまったことに俺は焦りを感じていた。
村雨さんは俺の沈黙を肯定と取ったのか、「ではこちらで新しい物件は手配しますので」と言って話を終わらせてしまった。
「それでは、新しい住まいの準備が出来ましたら、また伺わせていただきますね」
そういって、村雨さんは俺の家から帰っていった。
村雨さんは言葉通り、1週間後に再び家に来た。以前と同じ、黒いジャケットにタイトスカートといった出で立ちだ。
「新しい物件が見つかりました。 さあ、引っ越しましょう」
「いや、準備も何もできてないのですが…… 」
突然のことに、俺は困惑した。引っ越しも何も、こちらは荷物をまとめてすらいないのだ。
「これからやります。 委員会から人員を割いたので、佐藤様は何もしなくても大丈夫ですよ」
村雨さんはそういうと、携帯をスーツのポケットから取り出し、「それではよろしくお願いします」と、どこかに電話をした。
すると、数分も経たないうちに作業着を着た男性たちが6人ほどぞろぞろとやってきた。
「この人たちは一体……? 」
無言で俺の家に入ってきた彼らに困惑しながら、村雨さんに聞いた。
「ああ。彼らは委員会の構成員です。 今日は佐藤様の引っ越し準備を行うために呼びました」
彼らは俺に目礼をすると、俺の部屋に置いている家具類や雑貨の梱包を始めた。
「委員会っていうのはそんなことまでするんですか」
「はい。 これも独身男性の皆さまを監視するために必要なことですし…… 」
そうだ。この人は俺を”監視”するために近づいてきた職員だ。どんなに自分好みの可愛い女性だからと言って気を許してはいけない。そこをはき違えないようにしなければならない。
俺は自らを律するために、拳を握りしめ、手のひらに走る鈍い痛みをゆっくりと味わっていた。
それから。数時間後には荷物が全て運び出されてしまい、俺の部屋には何もなくなってしまった。大して広くはない部屋だが、物がなくなってしまうと少し広く感じる。
「あとは私たちが出ていけばおしまいですね」
村雨さんは柔和に微笑みながら俺を見つめる。俺が何とか隠している、汚い部分や邪な感情も全て見透かしてしまいそうな、そんな瞳をしていた。
「もう、この部屋に未練はないでしょうかね。 さあ、行きましょうか」
彼女はこちらに手を差し伸べる。とても小さな、白い手だ。
俺は少し逡巡したが、おずおずとその手を取った。血が通っていないのではないかというほどに冷たいが、触れれば心にぬくもりを感じ、鈍い痛みがすっと溶けてなくなってしまうような、不思議な気持ちにさせる手だった。
(つづく)