嘘八百日記

このブログ記事は全てフィクションです。

最近、脳内で植物を育てています

私は、脳内で植物を育てている。

その植物は、神経伝達物質であるセロトニンを養分として吸収し、成長していく。植物はゆっくりと脳を蝕み、いつしかその根が脳髄全体へと到達すると、思考や行動をも支配してしまう。自分の意思で体を上手く動かすことが出来なくなる。

布団から起き上がりたいのに、体が鉛のように重くなって全く起き上がれないのだ。生きるために食事をとり、栄養素を補給しなければならないのに、視床下部にまで根を伸ばすその植物がシグナル伝達系を弄り、食欲を減衰させてしまうのだ。

今の季節だと、窓の外から木枯らしの音が聞こえるだけで何故か胸が苦しくなる。そんな些細な刺激により、どうしようもない焦燥感で胸がいっぱいになる。

雲一つない秋晴れの空を眺めていると、その清々しさに自身の心境とのギャップを感じてさらに憂鬱になる。本来ならば、太陽の光をいっぱいに浴びれば脳内でセロトニンの分泌が促進し、幸福を感じられるはずなのに。

その植物は私の脳を支配してしまうと、それだけでは飽き足らず、私を肉体的な死へと追いやろうとする。

何の理由もなく、自分で自分の体を傷つけたい衝動に駆られる。 気が付いたら12階建てのマンションの屋上へと登ってしまう。 通販サイトで練炭と七輪を購入してしまう。 家のドアノブにズボンのベルトを掛け、突発的に首を吊ってしまう。

例え厳しい環境の中でも、工夫を凝らして生き残ろうと活動するのが生物としての本能であるというのに、この植物はそれとは真逆の行動を取らせようと画策する。

とある生物学者が、生物の合目的性における目的とは、種の生存に他ならないと言っていた。

種の生存というのは、個体が単独で生き残るような形質よりも、その個体がきちんと生殖し、未来へと遺伝子を残せるような方向で進化していくということだ。雄の孔雀の羽が美しいことや、牡鹿が牝鹿に比べて大きな角を持っていることなど、その進化を説明するために提唱された性淘汰がその例として挙げられる。

そのような合目的性こそが生物にとって重要であり、合目的性の有無が生物と無生物との境界となるという主張は少なからず存在している。


それなら、生殖をしようともせず、子孫を残さずに自ら死を選ぼうとする私は生物未満なのではないのか。