嘘八百日記

このブログ記事は全てフィクションです。

心の贅肉のポワレ 希死念慮と劣等感のキャベツ包み 隙自語を添えて

 これは遺書のようなものである。 いつ自分が死んでしまっても大丈夫なように、文章の形で今の自分の気持ちを残しておこうと思う。 自分が何も残さずに死んだら、私という存在がそもそもなかったかのように忘れられてしまいそうで、それがすごく怖かった。自分語りとはなってしまっているが、こんな人間がいたということを知ってもらえたら嬉しい。
 
 私の心には、常に死にたいという欲求が存在している。
 何か気分転換に小説を読んだり、自分で小説を書いてみても、それは希死念慮を薄めるだけで完全に取り除くことは出来ない。愉快なコンテンツや刺激的な出来事、刹那的快楽は一時的に希死念慮を希釈するだけに過ぎず、それがどうしても虚しく思えてしまうのだ。僅かな楽しみは、後から迫りくる漠然とした不安感やその後の人生への諦念なんかで塗りつぶされる。
 どうせこのまま死にたい気持ちと格闘し続けるだけなら、私の周りにあるものは全て無意味なのではないのかとさえ感じてしまう。
 死は救済とまでは思わないが、逃避の手段にはなりうると思う。ここで人生を終わらせてしまえば、その先に待っている将来について考える必要がなくなるし、将来に関わる不安感もなくなる。甘えた考えではあると思うが、今の私としてはもう何も考えたくないから、それを選びたい。
 そう思ってしまうのは、病気のせいなのかもしれないけれども、今の状態では死んでしまいたいというのが自分の本当の願いのように感じてしまう。 脳内伝達物質の濃度が低いせいでこのような希死念慮に苛まれているというのは理屈では分かっている。 でも、今こうして、どうしようもなく死にたいと思う自分の気持ちは、本物のように思える。だから苦しい。 自殺したくてもなかなかできることじゃないから、その欲求を満たすことはかなり難しい。だから切ない。
 
 自分がこうなってしまったのは、他でもない自分のせいだ。生きていくうえで、今まで私がしてきた選択の結果だと思う。以前は、私が病気になったのは親が冷たかったせいだ、これまで私を傷つけてきた人たちのせいだ、と本気で思っていたが、今はそうではないと思っている。 
 ただ、今日に至るまで、心を病むような選択肢ばかりを選んでしまったのは、私の心にある認知の歪みによるもので、その認知の歪みは幼少期からの経験や環境が少なからず影響しているような気がする。

 私は、幼いころから自分のことしか考えられない人間だった。
 幼い私は、思ったことはすぐ口に出すし、自分が不快だと思ったものはすぐに切り捨てていた。 自分の気持ちが一番で、他者がどう思うかなんてどうでもよかったのだ。 
 それでいて被害妄想が強く、ちょっとでも自分を否定するようなことを言われれば感情的になり、すぐに泣いていた。他者が傷つくのはどうでもよいのに、自分が傷つくことだけは許せなかったのだ。
 当然、小学校のクラスメイトからは嫌われていた。 小学五年生の時にはこれまで友人だった女子三人からいじめられた。いじめられて当然の生徒だった。
 こういう時に、「親のせいでこうなった」という論法があまり好きではないが、幼少期の私がこんな性格だったのは親の影響が多少あったのかな、とも思う。
 私の母親はかなり厳しく、感情的になることが多かった。 母親の言いつけを守れなければ大声で怒鳴り散らされ、叩かれていた。言いつけを守らない以外にも、母親の機嫌次第では特にこちらが何もしてないのに叩かれ、理不尽に怒鳴られることもあった。 幼少期の母親は、いつも怒っていた印象だ。
 当然、母親に褒めてもらえるといったことは皆無で、私は最低限の自己肯定感を培う材料になる『親からの承認』を得ることが出来なかった。
 その結果、自己肯定感を喪失した、被害者意識ばかりが肥大化した子供になってしまったのかもしれない。 いつも母親から怒られていたストレスからか、感情のコントロールをが上手くできず、思ったことをそのまま言ってしまって他の生徒を傷つけてしまっていた。
 小学五年生の時に、友人だった三人の生徒からいじめられたことがきっかけで、自分の在り方を見つめなおした。
 それで今度は、思ったことを全く言わず、本音は常に隠して相手が欲しがっている言葉ばかりを言うようになってしまった。 私は不器用なので、ゼロか百かでしか物事を考えられない、極端な部分があった。
 この傾向は今でも完全ではないが残っており、自分の思ったことを他人にそのまま伝えるのは大きな抵抗があるので、無意識的に本音を偽って道化を演じてしまう節がある。何か嫌なことや辛いことがあっても、それを他人には相談せずに自分で抱え込んでしまうのだ。 この性格によって、私が精神を病んでしまったのだと思う。
 自己肯定感が低いだけでなく、完璧主義的な部分があることも、私の性格が抱える問題の一つである。
 私の両親は優秀な人だった。父は大企業に勤めて三人の子供を大学まで通わせられるだけの収入をもらっていた、社会的にも成功した部類の人だった。母は大手保険会社に勤めていた経験もあり、専業主婦になってから再度大学で勉強し、司書の資格を取るほどの勉強熱心な人だった。
 そんな両親は、努力することが大事で、向上心を常に持っていれば報われるのだと自身の経験から学んでいたのだろう。 私が小さいころから『辛い方の道を選べば、自分がより成長できる』と言い、常に高いハードルを課すべきなのだと子供に教えていた。
 私もそれが正しいことだと信じ、これまでの人生で選択に迫られた時は自分にとって楽な方でなく辛いものを選ぶようにしていた。 中学では、忙しくて厳しいと分かっていながらも強豪の吹奏楽部に入部した。高校に首席で入学したので、沢山勉強して卒業まで成績首位を保った。両親の勧めで大学の志望校を有名大にし、合格した。
 そういう生活はあまり優秀でない私にとっては合わなかったのだと今になって思う。 中高時代は常に過度なストレスがあり、ほぼ毎日朝に吐いていたし、今よりも情緒不安定で登校時に電車の向かいに座る人を突然殴りつけたらどうなるかな、人を殺したら面白いのかな、と誰かを無性に傷つけてやりたいと思う、攻撃的で歪んだ思考に陥っていた(何とか行動に移さないよう理性で抑えた)。当時の自分を思い返すとかなり異常だったと思う。大学に入ってからは他者への攻撃性は殆どなくなった。 
  でも、努力し続けないと両親に認めてもらえないし、何もできない自分は生きていちゃいけない気がしたので頑張った。 このころから完璧主義的な部分が形成されたと思う。低い自己肯定感と完璧主義によって、私は自分で自分の首を絞めるような感じになっていた。
 
 私が本気で死んでしまいたいと思うようになったのは、大学三年の夏である。 それまでは、うっすらと死にたいと思っても、それは輪郭を持たない小さな願望に過ぎなかった。
 大学に入学してから、私はとあるサークルに所属していた。 混声合唱のサークルで、比較的人数も多く、真面目に活動していた団体だった。 
 一年生の頃はとても楽しかった。 これまでにないというほどに気の合う友人たちに恵まれ、その輪の中で私は中心的なポジションにいることが出来たので、友人たちから自分の存在を肯定し、受け入れてもらえているのだと思うことが出来た。
 これまで、成績や容姿は褒められたことはあれど、私自身の存在そのものを肯定してもらえたことはあまりなかった。 頭いいね、可愛いね、と言われ、虚栄心はくすぐられたが、どこか空虚に思えたのだった。
 今思えば、私は他者からの肯定に依存していたのである。 自分で自分を認められないがゆえに、他者からの承認と肯定に飢え、そればかりを求めるようになっていたのだ。
 他者から全幅の肯定を得られているうちはそれでよかったのかもしれない。 だが、ことはそう簡単には運ばないのだった。 
 大学二年生。 サークルは混声合唱団なので、ソプラノ、アルト、テノール、バスの四つのパートに分かれていた。 それぞれのパートにはパートリーダー(パート練習を仕切る役目)がいて、それを務めるのは二年生であった。 私はソプラノパートに入っていた。
 自分がサークルの中心的人物だと信じて疑わない私は、自尊心でパンパンに膨れ上がった状態のまま、パートリーダーに立候補したのだ。 これが間違いだった。
  最初の頃はよかった。だが、だんだんと、周りの同期の歌唱力がめきめきと上達していき、一方で私は自分の技術が上達しないことに悩むようになった。自分はパートリーダーという役職についているのに、それ以外の人より歌が下手なのはまずいと思うようになった。 同じパートの先輩にも、暗にお前の歌が下手だとパートの皆の手本になれない、と言われたこともある。
 このままでは他のサークルメンバーから必要とされなくなってしまうかもしれない。それだけは嫌だった。何とか上達しようと、 サークルの外部指導者の元へ何度も足を運び、個人レッスンをしてもらった。そこでかなりのダメ出しをされて半泣きにながら、それでも何とかレッスンを続けていた。
 必死だった。 皆から認められなければと必死だった。 それでも、私よりも個人レッスンに行っていない人の方が歌が上手だったり、オーディションでソロを勝ち取っていたりすると、自分が頑張っていることは無意味なのではないかと不安になった。
 レッスンに行ったり、練習を頑張ったおかげで、最初の頃よりはだいぶ歌は上手くなったとは思う。しかし、自分の周りの同期に比べると劣っていた。周りと自分を比較して劣等感に苛まれながらも、パートリーダーは二年生の最後までやり遂げた。
 大学三年生からは、サークルの運営に携わらなくてはいけなかった。 相変わらず肥大化した自尊心を飼っていた私は、運営の中でも重要な役職についてしまった。 目に見えて皆の役に立つポジションにいないと、自分の存在価値がなくなってしまうのではないかと不安だったのだ。
 サークルの練習は週三回で、夕方六時から夜八時まで行っていた。 三年生は練習終わりに毎回のように学校に残り、夜遅くまでサークルの運営に関わる会議をしていた。
 その会議でも、私の周りは優秀な人ばかりだったので、自分の仕事の出来なさや頭の回転の遅さを再認識しては落ち込んでいた。
 当時、私は実家暮らしで、実家は大学からかなり離れていたため、その会議が終わってから帰宅すると夜の十二時近くになっていた。 その翌日に一限の授業があったりしたので、睡眠時間はかなり短くなった。
 自分が不出来な人間であること、睡眠時間が短くなったこと、相変わらず周りより下手な歌唱力に劣等感を抱いていたこと、諸々が重なり、私は段々とサークルに行くのが億劫になってしまっていた。練習中に気分が悪くなり、早退することが増えた。サークルの同期のライングループに通知が来ているのを見るだけで動悸がした。 テスト期間でサークル練習が休みになっていた時は、勉強だけをすればよかったので幸せだった。休日は体を動かしたくなくて、一日中ベッドの上で過ごすということが増えた。
 そんなことが続いたある日の朝。確か三年生の夏だったと思う。 ベッドから起き上がろうとしたら、体が動かなかった。その日は一限から授業があったので、すぐに体を起こして支度をしなければならなかったのに、体が動かなかったのだった。 一限は諦めた。
 やっとのことで体を起こして、三限から授業に行こうと思った。 
 朝の混雑時からだいぶずれた時間の小田急線は空いていた。 窓からは日光が燦々と降り注ぎ、ガラガラの車内を明るく照らしていた。
 太陽の光に暖められた座席に私はどっかりと腰を下ろしてから、スマホの画面を見た。ラインを開くと、サークルのグループからの未読通知が十数件溜まっていた。少し躊躇いながらトーク画面を開き、ただ一言、『退部させていただきます』と送信した。もう限界だったのだ。
 結局、あそこまで必死に歌の練習をして、サークルの運営にも積極的に関わろうとしてたのに、あとには何も残らなかった。 途中でやめてしまっては、成功体験も何もない。そこにあるのは惨めな挫折感と調子を崩したメンタルだけだった。

 大学の学生支援室で受けられるカウンセリングには数回通った。 担当のカウンセラーは五十路のしょこたんといった雰囲気の女性で、妙に高圧的な部分があったので苦手だった。 その人のカウンセリングはすぐにやめ、病院から来ている精神科の医者のカウンセリングを受けるようになった。そこで、精神科の通院を勧められ、二年以上経った今でもその病院に通っている。
 精神科での診断はうつ病だった。 診断を受ける前から、何となくだがそんな気はしていた。 まさか自分が精神病に罹るとはこれまで思ってもいなかった。

 サークル活動はあくまできっかけであると思う。私のそれまでの選択によって形成されてきた人格や思考の癖の上に最後の藁よろしくサークル活動での劣等感が載せられて、とうとうラクダの背骨を折ってしまったといった感じだ。
 処方された薬が効いているのかどうかは分からなかった。サインバルタ、レクサプロ、バルプロ酸アモキサン、ミルタザピン、色々試したが、効果を実感したものはなかった。今では元気になるから薬を飲んでいるというより、薬を飲まないと離脱症状でかなり苦しむから飲んでいるというような感じだ。 
 それでも、精神科に初めて受診したころに比べるとまだましにはなったかもしれない。当時はかなり情緒不安定で、何もなくても突然泣き出したり、親しい人間を酷い言葉で傷つけたり、幼児退行して親しい人間に依存したりしていた。
 前より安定したとはいえ、死にたい気持ちは相変わらずある。むしろ希死念慮に至っては前よりも強くなったかもしれない。ドアノブで首を吊る非定型縊死はこれまで何度かやったが、上手く血管を圧迫できず失敗した。 飛び降りや飛び込みはいざやると恐ろしくなって尻込みしてしまった。 自殺には勇気がいるというよりは、死ぬ直前に待ち受ける、経験したことのない痛みや苦しみへの恐怖心を鈍麻させるほどの衝動が必要なのだと思う。 私は冷静さを捨てきれないため、いつもギリギリで踏みとどまってしまう。情けない。
 まだ挑戦してない死に方がある。それは凍死だ。 寒い冬の夜に、外のベンチに座って酒と睡眠導入剤を飲んでそのまま凍死したいと考えている。 死に場所はなるべく綺麗な場所だといいので、電車にのって三駅ほどにある綺麗な公園にでもしようかなと思う。 凍死は、体温が下がって寒くて辛くなる時に意識があるとだいぶ苦しんで死ぬらしいので、酒と睡眠導入剤で意識をなくした状態で深部体温を下げていきたい。今年の冬に挑戦してみたいが、私は臆病なので本当にできるかどうかは分からない。 

 


 
多分、本当は死にたいんじゃなくて、生きる上で自分にのしかかってくる苦しみだと不安から逃げたいだけなんだよ。 それが無ければ私は死ぬ必要もないと思う。本当は死にたくなんかない。 でも、現状を打破しうる気力も体力もない。他人に助けを求めたって誰も助けてなんかくれない。家族には頼れない。 どん詰まりでどうしようもないから死ぬという選択肢が頭にちらつくんだ。視野が狭まって、死ぬことが最適解なんじゃないって思えてくる。 間違っているのはよくわかる。でも、どうしようもない。自分を助けられるのは自分だけで、その自分がもう駄目ならどうしようもないのだ。